33話 リヒトホーフェン製薬
「つまり、おまえは研究開発に興味があると?」
「駄目…かな? そういうの」
「いや、悪くはない。むしろおまえのような子は、経営よりもそっち方面が向いているのかも知れんな」
「ありがとう、じいちゃん」
「ただ、それには条件がある」
「やっぱり、ドイツの学校に転校しないと駄目って話?」
「そうだな。ギムナジウムに編入するには、筆記試験で成績優秀であることは勿論だが、口答試験では語学や知識に限らず、考え方や人間性に至るまで審査される。かなり狭き門と言えるだろう」
「そうなんだ」
「何だ、他人事だな? 友達の力になりたいんじゃなかったのか?」
「それはそうなんだけど、でも、みんなと離れたくないっていうか」
「子供の頃は、うんと時間が長く感じるものだが、過ぎてしまえば、それはあっという間だ」
「何それ? よく、分かんないや?」
「人は、夢を叶えるためには、諦めなければならないこともある。それが大きければ、尚のことだ」
その言葉に、真っ先に聖くんの頭に浮かんだのは、朋華ちゃんでした。
彼女も、高校からは海外の音楽学校に留学することが決まっているため、いずれにしても一緒にいられるのは後一年半ほど。頭では理解しているつもりでも、こうしていざ自分がその立場になってみると、彼女の苦悩がよく分かります。
「じゃあさ、夢も友達も、両方諦めないっていうのは、あり?」
そう尋ねた聖くんに、祖父は少し驚いたような顔をすると、可笑しそうに笑いながら答えました。
「やはり姉弟だな。おまえも、フェレーナと同じことを言う」
「え? ブスがどうかしたの?」
「私には自分の意思で選択する権利がある、その選択肢は『どれか一つ』ではなく、『どれでも好きなだけ』だとな」
「言うね~」
「だが、口で言うほど、現実は甘くはないぞ。仮に、おまえがこのまま日本に残り、日本で博士号を取得して研究者になったとしよう」
「うん」
「研究には、莫大な費用が掛かる。一研究者が、大学や一般企業で研究を続けようとしても、真っ先に求められるのは結果だ。数年のうちに、一定の成果が出せなければ、大抵は経費が削られ、研究は打ち切りを余儀なくされる。分かるか?」
「うん、何となく」
「それと同時に、新薬の開発には、長い時間が掛かるのも事実だ。蓄積したデータがすべてと言っても過言ではない。どんなに優秀な研究者であっても、権力や利権の絡む場所では、いとも簡単に詐取される」
「ドラマとかで聞いたことある、そういうの」
「だが、おまえはリヒトホーフェン製薬の一族の人間だ。会社の研究所に主任研究者として入社すれば、潤沢な資金と、思う存分研究に没頭出来る環境が約束される。自分が研究職に向いていないと分かれば、経営に転向することだって可能だ」
「悩むところだよね」
「ルードヴィヒは、私の言う通りの道を選択した。フェレーナは、自分の思う道を選んだ。ヴィルフリート、おまえはおまえの思った通りの道を選ぶと良い」
「分かった」
「但し、ギムナジウムに編入できるタイムリミットは、概ね中学を卒業するまでだ。それ以降になれば、アビトゥーアの受験資格は得られなくなる。そのことだけは忘れないようにな」
すると、それまで気持ちよさそうに眠っていた猫たちが同時に目を覚まし、頭を持ち上げて、じっと貯蔵庫のほうを見つめました。
白猫のヴァイスが優雅に伸びをし、黒猫のシュヴァルツが小さく『カカカ…』という鳴き声を上げた次の瞬間、もの凄い勢いで、二匹は貯蔵庫の中へ駆け込んで行ったのです。
「何!?」
「ネズミの足音でも聞こえたのだろう」
「僕には何も聞こえなかったけど?」
「野生の本能というものだよ。うちの会社でも殺鼠剤を製造しているが、あんなものは食べ物の側に置けたものじゃない。薬殺すれば、死骸の処理も危険だ」
「自分の会社の製品だろ?」
「ふん。それに引き換え、猫たちの能力には頭が下がる。的確に捕獲して、後処理まで完璧にやってくれるからな」
「おまけに、可愛いしね」
「一番は、そこだな。薬など、足元にも及ばん」
「さっきから、薬の悪口ばっかりだよね?」
「薬は嫌いだ」
「はあ? じゃあ聞くけど、何でじいちゃんは、薬品会社なんてやってるの?」
その問いかけに、少し考えて、ぽつりと答えた祖父。
「まあ、おまえと似た動機から、だったかな」
「僕と? どういうこと?」
「忘れた。もう、半世紀以上も昔のことだ」
それ以上は答えず、葡萄畑を渡る風を受けながら、深く皺が刻まれた青い瞳で、悲しげに微笑むだけでした。
自分の将来について、今までこんなふうに話すことはなかった聖くん。
特に、感情的でヒステリックな母親とは、まともに話も出来なかったため、こうして祖父と話せたことで、あらためて自分がどうしたいのかをじっくり考えるきっかけになり、彼にとって大きな意味を持ったことは間違いありません。
ただ、この一件で母のメンタルは最悪な状態になり、これ以上彼女のご機嫌を損ねないために、祖父を除いたリヒトホーフェン家の人々は、これまでにないくらい緊張した状態で過ごさねばならず、それは日本に帰国するまで継続したのです。
黒と黄色の危険なカラーを選んだのも、それが原因だったのかは分かりませんが、こうして久しぶりに心通い合うみんなに会え、ようやく心の平和を取り戻せた気がしていました。
お土産の交換が終わると、全員が最後まで残していた、中学二年の夏休みの美術の課題である『静物画』を描くため、それぞれが好きな場所へ移動。
だいたい、静物画を描けと言われても、先ず何を描けばいいのか悩むところから始めなければならず、それを準備して、デッサンをして…などとやっていたら、日が暮れて、夜が明けて、また日が暮れても終わらない、というのが現実です。
ですが、この家には売るほどアンティークな物が溢れかえっているため、先ず以ってモチーフには事欠きません。
各自、自分が描くものを決めると、絵が得意な夏輝くんが、ささっと下書きをしてくれて、後はそれに色を付けるだけの状態に。
おまけに、
「ねえ、誰か赤系塗ってる?」
「青系、完了~!」
「仕上げの影入れ、お願いしまーす!」
「出来たのからこっちへ持って来て。ドライヤーで乾かすからさ~」
全員で協力して、まさかの流れ作業。一時間もしないうちに、難題だった静物画が完成し、これで夏休みの宿題はすべてやっつけたことになります。
渇いた絵を片付けていたとき、ふと隣で作業していた私の手の傷に気付いた聖くん。
「その傷、どうした?」
「ああ、これ? この前、ちょっと切っちゃって」
「包丁?」
「うん。なかなか、木の実ちゃんみたいには、上手くいかないのよね」
「そっか」
左手の甲に出来た小さな切り傷に、どこか違和感をおぼえたものの、それ以上は聞かず、この時はそのままスルーしたのです。
これが後々、私たちの間に大きなすれ違いを産み、その後の悲劇を招くことになるなど、知る由もなく。
夏休みも残り二週間。蝉しぐれに、ヒグラシやツクツクボウシの鳴き声を聞くようになっていました。
来週末には朋華ちゃんの母親、小夜子さんが、二か月半に及ぶヨーロッパ公演から帰国するため、こうして気兼ねなくジュース・デーを開催出来るのも、後僅かです。
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