32話 祖父

 そもそも、ひろ子さんがフランツさんと結婚したのは、ドイツ語が話せる彼女に、知り合いからお見合いの話が持ち込まれたのがきっかけでした。


 実家で同居していた母親と祖母の、それはそれはドロドロした嫁姑争いを間近で見ていたため、国際結婚なら、そうした煩わしい問題に巻き込まれずに済むと思ったことが一つ。


 さらに、フランツさんは日本支社、兄夫婦が本社と、完全に仕事が分担されており、この先ドイツへの赴任もないということが、最終的な決定打となったのに、幼い息子を一人異国に遣るなど、予定どころか、想像だにしていなかったことでした。


 おまけに、義父は頑固で、自分がこうと決めたら絶対に譲らない性格。外国人男性はレディーファーストだと聞いていたはずが、これでは日本の頑固オヤジと変わりません。


 その上、思ったことをはっきり言葉にして言うため、言わないことを美徳とする典型的な日本人のひろ子さんにとって、これまでもどれほど傷付けられてきたことか。


 言った本人だけがスッキリして、後はきれいさっぱり水に流して忘れるため、悪気がない分、たちが悪いことこのうえなく、彼女のストレスは溜まる一方で、これでは、国際結婚をした意味などありません。


 あの時、お見合いを断っていたら、子供を海外へ強奪されることもなかったでしょうし、距離や文化の違いがない分、日本のネチネチした嫁姑のほうが、全然マシだとさえ思えます。


 もうこうなると、坊主憎けりゃで、義父が子供たちをドイツ名で呼ぶことさえ腹が立って仕方なく、長男に至ってはドイツ在住歴が長いために、会話もすべてドイツ語で、ちゃんと日本語を覚えているのかさえ不明。


 自分の手元で育てたかった無念さと、一人淋しい思いをさせてしまった申し訳なさに、心が押し潰されそうになる一方、長女と次男には同じ思いをさせまいと、ふたりの教育は日本でということで決着していたにも関わらず、ここへ来て、また蒸し返し始めた義父。


 今回の里帰りで、必ず言ってくるだろうとは思っていましたが、相変わらずこちらの意見など全く聞く耳持たないといった態度に我慢の限界を超え、泣き出してしまったひろ子さん。



「ママ、何もこんなところで泣かなくても…」


「パパは平気なの!? 詢に続いて、聖まで私たちから取り上げられるのよ!?」


「平気じゃないけど」


「だったら、どうしてパパからもお義父さんに言ってくれないのよ!?」


「それは…」


「だいたい、聖が『ドイツの学校に行きたくない』って言わないから、おじいちゃんがいつまでもあんなこと言うんじゃない!」


「んなこと言われたって…!」


「そうだよ、ママ。ここで、聖に当たらなくても…」


「何よ! それじゃ、私が悪いっていうの!?」


「誰もそんなこと、言ってないでしょう?」


「結局、私の味方なんていないんだわ! 私の意見なんて聞いてくれないんだもん! いつもそう! どうして私ばっかり我慢しなきゃいけないの!? こんなのもう嫌! うわああぁぁぁん!」



 もともとヒステリックなところがあり、こんなふうに泣き喚くことも、それほど珍しいことではありません。


 宥めようとする父親を罵倒して、号泣する母親の姿を見るのがいたたまれず、黙って部屋を出た聖くん。そもそもが、自分の進路に関することに端を発する諍いに、心が痛まないといえば嘘になりますが、面倒くさいというのが本音です。


 こうなると、当分ご機嫌が直ることはなく、側に居れば当り散らされるため、触らぬ神に祟りなしの避難行動でした。





郊外にある広いお屋敷の敷地内を、当てもなくぶらぶら歩いていると、裏門近くで、祖父の姿を見つけました。


 そこはたくさんの葡萄の木が植えられ、併設されたワイン貯蔵庫には、毎年秋に収穫される葡萄で作る自家製のハウスワインが熟成されています。


 その北側には、ドイツトウヒやモミなど防風林の巨木が並び、木の下に置かれたベンチで、猫たちと一緒に涼んでいる様子。近づいた聖くんに気付き、穏やかな口調で訊ねました。



「ヴィルフリートか。お母さんはどうしてる?」


「泣いてる」


「おまえは、慰めなくていいのか?」


「いつものことだから」



 あまりにもドライな聖くんの発言に苦笑すると、ベンチを勧めました。


 幾重にも重なった針葉樹の葉が、ドイツ特有の強い夏の陽射しを遮り、葡萄畑を吹き抜ける風が心地良いこの場所は、祖父と、黒猫のシュヴァルツ、白猫のヴァイスのお気に入りの場所です。


 もともと猫たちは、ネズミからワインの樽を守るために、この屋敷で飼われていたのですが、猫好きな祖父母にたいそう可愛がられており、腰かけた聖くんに少し目を遣っただけで、すぐまた眠り始める二匹。


 まったく警戒心のない猫たちを優しく撫でながら、話を切り出しました。



「ねえ、僕はどうしても、ドイツの学校に行かないと駄目かな?」


「おまえは、何歳になった?」


「14歳」


「だったら、自分がどうしたいと思っているのか、自分自身で決められる年齢だな。どうしたいと思ってる?」


「その前に、僕の大切な友達がいてね。彼は、うちの新薬を使ってる患者なんだ」


「ほう、それは興味深い話だな。それで?」


「うん」



 そう言うと、大切な友達のことを話したのです。





  聖くんが、夏輝くんと同じクラスになったのは、小学三年生のときでした。


 クラス替えがあるたび、保さんはPTAの会合に出向き、息子の病気に関する説明と、周囲への協力のお願いをしており、それに参加していたひろ子さんが、個別に話しかけたことで、両家の交流が始まったのです。


 まだ幼い子供たちには、詳しい事情など理解するべくもなく、すぐに仲良くなり、聖くん自身、夏輝くんの父親は、『おじいちゃんの会社から商品を買っている人』程度の認識しかありませんでした。


 どんなに気を付けていても、学校や日常生活の中で怪我をしてしまうことがあり、年齢が上がるにつれて、祖父の会社が製造する薬が、夏輝くんのような患者にとってどれほど重要であるのかを理解するようになっていったのです。


 止血用の血液製剤には、出血してから投与する他に、運動会や遠足など事前に投与しておき、万が一の出血を予防する方法がありますが、当時はまだ相当な高額だったことに加え、安全性や副作用の問題も完全に解決しているとはいえず、日常的に投与し続ける薬は、多くの患者や家族の夢でした。


 それを痛感したのが、先日のジュース・デーでの怪我。


 例えば、あの怪我をしたのが夏輝くんではなかったら、適当に消毒をして、絆創膏でも貼っておくだけで事は足りたはずです。でも、そんな怪我が、彼らには致命傷になってしまうのだという事実。


 もし、安全で安価な薬を量産することが出来たなら、夏輝くんのような患者の生活は、現状とは比較にならないくらい、自由で安心出来るものになるでしょうし、将来、そうした薬の開発を手掛けることも可能な環境に、自分自身がいるということに、少なからず心を動かされていたのです。


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