29話 秘め事
私には、ある特殊な能力がありました。それは、母との確執の中で培われたものです。
気分屋の母が、いつ何がきっかけで激高しだすか知れない恐怖から、常に母の顔いろばかりを伺うようになっていた私は、無意識のうちに、常に最悪のシナリオを想定して、何歩も先のことを予測して先回りする癖がつき、いつしかその感覚は、相手が何を考えているのかも見透かすほど、研ぎ澄まされて行きました。
その時の『喜・怒・哀・楽』から、自分に対する感情、どこに怒りのスイッチがあり、どんな言葉を掛ければ喜ぶのかまで察知し、さらには、どのタイミングでどんな言葉を繰り出し、どの感情のスイッチを入れるかで、相手の行動を誘導するまでの術を身に付けたのです。
「びしょびしょじゃない? 晴れ男だったんじゃなかったの?」
「マジで、後10メートルだったんだって!」
「10メートルぽっちで、そこまで濡れるか~?」
「バケツをひっくり返したみたいな降りだぞ!? 嘘だと思うなら、冬翔もこうちゃんも、一回外へ出てみ?」
「やだ!」「断る!」
でも、それが通用しないタイプの人もいます。そのひとりが、母でした。
自分が何歩先を読んでも、母はさらにその先にいて、どんなに感覚を研ぎ澄まし、努力や注意をしたところで、理不尽な目に遭うかどうかは、その時の母の気分次第。
そのためにこそ身に付けた能力だというのに、肝心の母に使えないことで、私にとってその価値はないにも等しいものと言えました。
「もう、参ったよ。こんなはずじゃなかったのにさ」
「とりあえず、着替えたら? 風邪引くよ?」
「それより、暖かい紅茶が飲みたい。はっ! そう言えばお湯…!!」
「消しておきました」
「火、掛けっぱなしで出かけるとか、最低だな」
「すまーん!」
「許さん」「お仕置きの刑だな」
もう一つは、私にとって大切だと思う人。朋華ちゃんや夏輝くんたちがそうです。
友達でも恋人でも、親しくなるところまでは誘導出来ても、私を好きになるように仕向けることは不可能。むしろ、自分が相手を好きになればなるほど、逆に相手の気持ちが読めなくなってしまい、やはりこちらもあまり意味を成しません。
「それより、冬翔、出掛けたんじゃなかったの?」
「いたよ。だって、天気崩れるって予報だったし」
「なら、冬翔も一緒にお茶しようよ?」
「だって、悪いだろ? せっかくふたりの初デートだったいうのに、お邪魔虫いたら」
「いいよね、こうちゃん?」
「勿論! みんなでお茶したほうが、楽しいし」
「それに、無事、バニラエッセンスも買って来たことだし」
「てか、バニラエッセンスに執着してるけど、それ何なの?」
「えっ!? マジで知らないの? 紅茶にバニラエッセンス入れる飲み方?」
「知らなーい」「んなの聞いたことねーし」
さらにもう一つは、私に対し、悪意や嫌悪感を抱いている人。そういう人は、心のシャッターを閉ざしているため、どんなに相手が望む通りの言葉を掛けたところで受け付けてくれないどころか、むしろそれが逆効果になることも。
過去に母が原因で起こったトラブルの相手も、概ねそういった状況でしたから、本当に肝心な時に全然役に立たない能力であることこの上ありません。
考えてみれば、子供にとって母親は愛するべき存在であり、その母親は私に対しネガティブな感情を抱いているのですから、母にこの能力が通用しないのは当然といえば当然です。
そして、私と夏輝くんが付き合い始めたことに加え、私が冬翔くんへの虐待を知ってしまったことで、私たち三人の相関関係が変わったということ。
冬翔くんにとっての『夏輝くん』という存在は先に述べた通りですが、事実、私が『友達』から『彼女』に昇格したことで、それまで彼の中で一番だった冬翔くんのポジションにとって代わる存在になりつつありました。
それだけであれば、ただの通過点に過ぎないことですが、絶対に知られてはいけない秘密を知ってしまった私。
「じゃ、僕は着替えるから、悪いけどその間に…」
「お紅茶を入れておけばいいのね?」
「うん、頼んだよ」
「バニラエッセンスは、いつ入れるんだよ?」
「後でやるから、そのまま置いといて~」
「これ、ホントにいる?」「さあ?」
保さんは常々『女は口が軽い』といったニュアンスのことを口癖のように言っていたそうです。そして、『苦しくても弱音を吐かない、口の堅い女に限る』とも。
その言葉が持つ意味と、これまで彼が死守して来た秘密を、私が共有する立場となった今、冬翔くんにとってそれが新たな『脅威』となり得たことを。
「って、ここで着替える気!?」
「だって、一人は淋しいから。あと、ちょうど渇いた洗濯物があったし」
「結局、面倒くさがりなだけじゃん」
「あ、こうちゃん、ちょっと向こう向いてて~」
「見ないし! てか、見たくないっつーの!」
「それはそうと、さっき怖いとか言ってたけど、何が怖いの?」
「こうちゃんは、昔から幽霊が怖いんだよね」
「ちょっと、ふうちゃん、やめてよ!」
「え? そうなの?」
「うちの家、古いから、たまに出るし」
「ふうちゃん、いい加減にしないと、怒るわよ!」
「あはは~! ごめん、ごめん!」
「へー、こうちゃんが幽霊怖いって、意外だったな!」
「だから! 幽霊、幽霊、言わないでよ! ホントに出たらどうすんのよ! この中に、退散出来る霊能者はいるの!? いないなら、わざわざ呼び寄せるようなことしないでよね!!!」
「ヤベ!」「マジギレした!」
ティーカップに数滴滴らせたバニラエッセンスの甘い香りが室内に広がり、それをそっと口に運んだ私たちに、
「どう? 美味しいでしょ?」
「うん、私は好きかも」
「良い香りだな」
「だろ、だろ、だろ! 雨の中、びしょ濡れになってまで、買に行った甲斐があったよ!」
「何? やっぱ、最初から濡れてたんじゃん?」
「はっ! あ、いや、それはその…!」
「晴れ男が聞いて呆れるわ」「だな」
結局、嘘がバレて弄られる夏輝くんに、室内には笑い声が飛び交います。
冬翔くんの中で芽生えた脅威は、やがて私に対する攻撃という形で、静かに始動し始めるのです。
彼にとって私は大切な友人であり、大切な兄の恋人でもあり、誰にも知られることなく死守するもう一つの秘密に、たった一人で耐え続ける彼を取り巻く状況を打開するには、あまりにも自分たちが幼かったとしか言えません。
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