28話 搾取子
そっと捲ったシャツの下には、数え切れないくらいの傷があり、それらは一見して外からは分からないよう、服に隠れる部分に集中していました。
まだ新しいものから、かなり古いものまであることから、いかに長い間、陰湿な虐待が継続していたのかが伺えます。
「虐待…されてるんでしょ? 実の父親から…」
「…」
「ふたりとも? それとも、ふうちゃんだけ…?」
「僕だけだよ。夏輝は、怪我したらマズイでしょ」
「このこと、なっちゃんは…?」
「知らない。何も…」
虐待をする親の中には、兄弟間であからさまに差別的な扱いをするケースがあり、私や冬翔くんのように、ターゲットにされる子供を『搾取子』、反対にゆりのように溺愛され、甘やかされ放題にされる子供を『愛玩子』といいます。
おそらく夏輝くんは、父親から溺愛されている愛玩子に違いなく、ゆりと大きく違う点は、双子の弟である冬翔くんが同じ父親から虐待されていることを、まったく知らないという点です。
「いつから…?」
「多分、物心ついた頃から…」
「暴力だけ…?」
「いろいろ…ね。『おまえが生まれなければ、亜妃は死ななかった』とか、『おまえが死ねばよかった』とか、『何でおまえが病気じゃないんだ』とか…」
なぜ、同じ兄弟なのに、子供に対してこんな差別をするのか、その理由も様々で、『性格が合わない』『容姿が嫌い』など、明確な理由を持っている人もいれば、何となく気に食わないといった掴みどころのないケースもあり。
一つだけいえるのは、一度出来てしまった関係性が逆転することは稀で、一旦搾取子と位置付けられてしまった子供は、大人になってもその親だけでなく、愛玩子である兄弟からも、色んな問題や責任を転嫁されたり、時間やお金までも搾取され続けることも少なくないのです。
ゆりの噛みつき事件同様、幼かった私はすっかりこのことを忘れていたのですが、ずっと保さんに感じていた違和感の正体は、母と同じ種類の人間であることを、記憶の奥底で感じていたからなのでしょう。
「酷い…辛かったね…」
「別に。慣れてるから…」
「お盆が明けたら、みんなにも相談しようよ…?」
「悪いけど、こうちゃんの中だけに留めといてくれないかな?」
その気持ちは、同じ立場である私にはよく分かります。
助けて欲しいと思う一方で、出来ればそんな惨めな自分を知られたくないというプライドが邪魔をし、同時に、そのプライドがあることで、何とか自分を保っていられるという側面もあるのです。
私自身、親友の朋華ちゃんと木の実ちゃんでさえ、自分が虐待を受けていることをカミングアウトするのは、死ぬほど勇気が要りました。
ただ、そうしたことによって、心理的に相当な部分で救われたことも事実。私と同じ、いえ、私など比較にならないほどの苦しみを抱える冬翔くんを、何とか救いたいという一心でした。
「だったら、せめてなっちゃんだけにでも…」
「やめろ…」
「だけど、なっちゃんには本当のことを知らせないと…」
「あいつは、そんなこと知らなくていい!」
「そんなの、無理だよ! いつかは気付くときが…!」
「気付かせない! 絶対に!」
「ふうちゃん、落ち着い…!」
「言ったら殺す!!!」
声を荒らげ、私の両手を掴んで、乱暴に壁に押し付けた冬翔くん。その力から、彼の本気度が伝わります。
おそらく、冬翔くんにとって、夏輝くんは双子の兄というだけではなく、実の父親から虐待を受ける自分とは異なり、一身に愛だけを受ける『幸せの象徴』であり、そこに自分を投影することで、現実から目を逸らせているのでしょう。
そして、冬翔くんが夏輝くんに真実を伝えたくないもう一つの理由。それは、彼が無菌室の純粋培養であるということでした。
ゆりのように、愛玩子の多くが、毒親と一緒に搾取子をターゲットにすることが多い中、虐待の事実など全く知らず、たまに喧嘩をすることはあっても、母親が他界し、父親も多忙で不在がちな環境にいる夏輝くんにとって、冬翔くんは自分の分身であり、最も心許せる唯一無二の存在であることは間違いありません。
甘やかされるだけで、躾や努力することを教えられなかった子供が、社会生活に溶け込めないことが多いように、心から尊敬し、信頼し、愛する父親の汚い部分を知らずに育った夏輝くんが真実を知ったとき、果たしてその事実を受け止め切れるのかということ。
ピュアなだけに、あまりにも受容限度を超えてしまえば、心が崩壊してしまう危険があるのです。そう、そしてこれもまた、一見して周囲にはまったくもってそうとは分からない、そしてある意味最も残酷ともいえる『虐待』の形なのです。
少しの沈黙の後、静かな声で冬翔くんが言いました。
「約束して。このことは、絶対に誰にも言わないって…」
「うん…」
「ありがとう…」
「でも、ふうちゃんは…? このままじゃ、ふうちゃんの心が…」
その言葉の先を遮るように、目も眩むような閃光が走ると同時に、けたたましい雷鳴が轟き、一瞬の静寂が支配した直後、地響きを伴うほどの大量の雨が落ち始めました。
一瞬、冬翔くんの目が笑った気がしましたが、ゆっくり両方の手を私の首に回すと、聞いたこともないような低く暗い声で、耳元で囁いたのです。
「夏輝を傷つけたり、壊そうとしたら、許さないから…」
「分かった…」
「僕が、本気で殺しに行くから。たとえそれが、夏輝の大切な人でも…」
首に回した冬翔くんの手に、少し力が加わった気がした次の瞬間。
「ただいまーっ!! あとちょっとだったのに、濡れた~~!!」
そう叫びながら、びしょ濡れで玄関から飛び込んで来た、夏輝くん。
そして、雨で真っ暗な玄関横の廊下で一緒にいた私たちを見て、不思議そうな顔で尋ねました。
「どうしたの? ふたりして、こんなところで?」
「どうしたの、じゃないだろ? 夏輝が帰って来ないから、ふたりで心配して待ってたんじゃないか」
瞬時に変わった冬翔くんの表情に、彼が私と同じ、一切の感情を殺して嘘がつける人間であることを確信したのです。
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