17話 異国の教会にて

 ホテルを出た小夜子さんは、近くのお花屋さんに立ち寄ると、オーダーしておいた黄色の花束を受け取り、その足で町外れにある教会へ向かいました。


 ヨーロッパ公演があるたび、必ずこの教会を訪れていましたが、この日に訪れたのは初めてで、花を手向けようと祭壇に歩み寄ると、そこには自分が持って来たものとは別の、黄色いブーケが一つ。


 急いで外に出て辺りを見回すと、隣接する広大なガーデンの中を歩く、一人の日本人らしい男性の姿があり、足早に歩み寄って声を掛けました。



「保くん…?」



 異国の地で、流暢な日本語で自分の名前を呼びかけられた驚きに加え、目の前に立つ黄色い花束を持ったその女性の姿に、思わず目頭が熱くなるのを堪えながら、彼は嬉しそうな笑顔を浮かべて答えたのです。



「小夜ちゃん。来てくれたんだね…」


「うん。今年は、たまたまこの時期に公演が重なったおかげで」


「ありがとう。きっと亜妃も、喜んでくれてると思う」


 

 ここは、小夜子さんと亜妃さんがまだ十代の頃、留学中にふたりで旅行に訪れ、とても気に入った町でした。


 帰国してからも、独身時代には何度も一緒にここを訪れ、亜妃さんは新婚旅行でもこの地を選んだほど。当時はまだ海外旅行ですら珍しかった時代。当然、海外挙式などという概念もありませんでした。


 かねてから、大のお気に入りだったこの教会に訪れた若い夫婦、クリスチャンでもなく、一旅行者の異邦人だったにも関わらず、神父様の特別の計らいで、結婚式を挙げることが出来たのです。


 そのとき、たまたま大きなコンクールに出場するためにヨーロッパを訪れていた小夜子さん。多忙なスケジュールを縫ってふたりに合流した彼女が、この教会での結婚式を見届けた、ただ一人の立会人でした。


 日本で挙げた盛大な披露宴とは違い、三人だけの厳かな結婚式。墓地も兼ねた隣接するガーデンで摘んだ、黄色い花を束にしただけの急ごしらえのブーケを手にした亜妃さんの笑顔が、瞼を閉じれば鮮明に蘇ります。



「私が死んだら、この教会のお墓に埋葬して欲しいな~」



 結婚式を終え、幸せの絶頂でそう言った亜妃さん。遠い未来の話として微笑んだその言葉が、まさかこんなに早く現実になるとは、誰も思ってはいなかったことでしょう。


 ですが、外国人で異教徒の彼女をこの地に埋葬することは叶わず、日本で北御門家のお墓に納骨されたお骨の一部が、散骨が許可されているガーデンの一角に眠っていました。



「保くん、命日には、毎年ここへ?」


「うん。僕が亜妃にしてやれることなんて、それくらいしかないから」


「子供たちはどうしてるの? 亜妃の命日は、あの子たちのお誕生日でしょう?」


「誕生日プレゼントを兼ねて、たくさんお土産を買って帰ることで、勘弁してもらってる」


「保くんらしいわね」


「亜妃が死んで、死ぬほど辛かったけど、子供を残してくれたことは、僕にとって救いだったと思う。もし子供がいなかったら、今の自分はなかったかも知れない…」



 亜妃さんが眠るお花畑の一角に向かって、そっと手を合わせるふたり。一面色とりどりに咲く花の中、無意識に黄色の花に目が行きます。


 少し小高くなった丘にあるベンチに腰掛けると、胸ポケットから写真を取り出した保さん。それは、リビングのピアノに飾ってあったのと同じもので、あの日、この場所で撮った亜妃さんの姿でした。



「亜妃だけズルいよね。永遠に26歳のままなんだもん。私、今年で40になったのよ」


「僕だってだよ。時間の経つのは、早いよな」


「そういえば、知ってる? 近頃、うちの朋華、夏輝くんたちと仲良くして貰ってるみたいよ」


「それは、知らなかったな~。何? 付き合ってるの?」


「そうじゃないみたい。お友達と一緒に、グループで仲良くしてるらしいの。本人は、必死でポーカーフェイスを装ってるけど」



 そう言うと、おかしそうに笑う小夜子さん。まさか、母親にバレているとは、夢にも思っていないことでしょう。


 が、よくよく考えてみれば、ストーカー並みの超過干渉な母親にとって、娘の秘密を知ることなど、雑作もなかったに違いありません。


 普段なら、レッスンの邪魔になるようなことは、徹底的に排除する小夜子さんでしたが、今回ばかりは口出しせずにいたのは、単に親友の忘れ形見という理由だけではなかったようで。



「ねえ、小夜ちゃん、訊いてもいいかな?」


「何?」


「朋ちゃんの父親のことだけど…」



 その言葉に、小夜子さんはキュッと閉じた唇の端に小さな笑みを浮かべ、視線を逸らせました。


 朋華ちゃんの戸籍は、父親の記載が空欄になっています。戸籍筆頭者は、小夜子さん本人、つまり朋華ちゃんは非嫡出子であり、彼女は『未婚の母』ということ。


 娘の父親が誰であるかは、自分の母親はもちろん、朋華ちゃん本人にさえ明かしておらず、小夜子さんだけの秘密でした。



「聞いてどうするの?」


「本当に、誰にも言わないつもりなのかい?」


「もちろん、そのつもりよ。どうして?」


「だってさ…、亜妃みたいなこともあるし、そうなったとき、君も朋ちゃんも後悔するんじゃないかってさ」



 すると、小夜子さんはふっと笑い、勝気な瞳で答えました。



「朋華が誰の子かっていうなら、それは間違いなく『私の子』よ。私の思い通りに、一流のピアニストにするために産み育てている、人生をかけた私の作品」


「君は、強いね。今も、昔も…」


「強いよ。女だから」



 本当の父親が誰なのか、朋華ちゃんがその真実を知るのは、まだずっと先のこと。今生で父娘が名乗りを上げることが出来たのかどうか、それはまた、別のお話。





 亜妃さんの想い出話や、お互いの近況などを話しながら、しばらく公園内を歩いていましたが、今晩のコンサートの準備のため、そろそろ戻らなければならない時間になり、



「それじゃ、また」


「うん。身体に気を付けて。コンサート、頑張ってね」


「たまには、聴きに来てよ?」


「チケットが取れないって!」


「送るわよー!」


「期待せずに、待ってるよー…!」



 それ以上は、何を言っているのか認識出来ず、再び礼拝堂に戻り、祭壇に花束を掲げると、その場を後にした小夜子さん。


 今も、この古い街並みのどこかに亜妃さんがいて、彼女の奏でるフルートが聞こえてきそうな気がする、そんな昼下がりでした。


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