5話 伝言板

 朋華ちゃんは、将来一流のピアニストになるべく、日々、世界的プロピアニストの母親の指導の下で、帰宅後は食事とお風呂を除くほぼすべての時間、厳しいレッスンを義務付けられている、生まれながらの超サラブレッド。


 本来なら、放課後はまっすぐに帰宅すべきところ、とある理由で、少しでも彼女が自由になれる時間を確保するため、昨年、私たちが立ち上げたのが『ピアノ同好会』でした。


 当初、母親は同好会活動には反対でしたが、誰の邪魔も入らない自宅の防音完備されたピアノ室より、学校のような不特定多数が出入りする雑然とした空間でレッスンをすることで、大舞台に立った時、より平常心でいられるための集中力を養う訓練になると説得。


 また、学校にはOGから寄贈された『スタインウェイ』『ベーゼンドルファー』『ベヒシュタイン』といった最高級メーカーのグランドピアノもあり、一般の生徒なら学校側も使用を渋るところですが、ピアニスト笹塚小夜子の娘となれば、話は別。どちらにとっても、不足はありません。


 活動内容としては、朋華ちゃんが直接教えたり、一緒に演奏するのではなく、自分で決めた課題曲をただひたすら練習するだけというものですが、同好会を立ち上げた途端、入会希望者が殺到。


 その多くは、プロピアニスト笹塚小夜子の大ファンである母親たちが、お近付きになろうと娘に入会を勧めるというケースで、中には全くピアノの経験がないという人もいました。


 校内には、グランドピアノ以外にも、OGから寄贈されたアップライトピアノが各教室に一つずつ置かれており、その日の気分でどれを使うかは自由、初心者の指導を含め、アドバイスなどは、課題をクリアした人が自主的に行うというルールです。


 私たちの目論見通り、活動日にはいたる所で思い思いの曲が演奏されるため、朋華ちゃんが弾いてなくても、まず気付かれることはなく、そうして捻出した僅かな時間が、私たちの憩いとなっていました。


 そんなよこしまな動機で立ち上げた同好会ですが、朋華ちゃん自身、ピアニストになることが最大の目標であることには変わりなく、あくまでストレス解消程度に、週に1~2回の頻度で活動していた次第です。



「なるほど、そういう訳だったんだ」


「何か、凄い大変な世界だね」


「そういうことなら、無理に誘っても悪いよね?」


「そんなことない! だって、こんなに楽しかったんだもの!」



 力強くそう答えた朋華ちゃん。おそらく、誰もが同じ気持ちだったと思います。そこで、



「じゃあ、こうしない? 同好会の日は、前日にこの伝言板に書いておくから…」


「なるほど! それを、僕らが毎日忘れずにチェックして、同じ電車に乗ればいいってことだよね?」



 今のように、携帯もメールもない時代、駅に設置された伝言板は、移動中のコミュニケーションツールとして、多くの人に利用されていました。


 当時は、連絡手段が専ら自宅の固定電話だったため、下手すれば親が出る可能性もあり、余計な詮索をされて嫌な思いをするといったリスクを避けるためにも、若者たちにとっては有効なアイテムでした。


 利用方法は至って簡単。ブラックボードやホワイトボードで設えた伝言板には、誰でも自由に書き込むことが可能で、内容に関わらず、一定時間が経過したものから、職員によって消されるというシステム。


 両校は7時間授業と6時間授業のカリキュラムの違いで、登下校の時間帯がズレており、先に下校する私たちが書き込んだものを、後から通過する彼らが確認し、翌朝先に登校する彼らの返事を、私たちが確認するという、時間差を利用した画期的かつ合理的な使い方です。



「グッドアイディア! これだったら、完璧じゃん!」


「さすがこうめちゃん! 冴えてるぅ~!」


「よし、それで行こう! 後は、暗号をどうするかだな」



 そしてもう一つ。知り合い等に身バレしないよう、自分たちだけに分かる書き方を決めておく必要がありました。


 そこで、なるべく違和感のない文章を使っての暗号を相談。みんなで、いくつか案を出し合った中で採用したのは次の通り。


 まず、私たちから彼らへのメッセージは、『○っちゃんへ。×ーちゃん~』というつまった呼び方と伸ばす呼び方の二種類の名前が入り、彼らからの返事は『×ーちゃんへ。○っちゃん~』と逆になります。


 名前は必ずひらがな表記で、カタカナの名詞を一つ用い、それを肯定する内容ならOK、否定であればNGの意味になり、毎回名前と名詞はランダムに変更。


 例えば、



『あっちゃんへ。いーちゃんにペンを渡しました』=明日同好会がある。


『うーちゃんへ。えっちゃんがリンゴを買って来ます』=了解。


『おーちゃんへ。かっちゃんはキーを持っていません』=都合が悪い。



 といった具合です。


 気を付けるべきは、あまりおかしな名前にならないようにするくらいでしたが、初めて書き込みをする際には、三人で何度も文章を確かめ合い、翌朝、彼らからの返事を見つけた時は妙にドキドキして、実際に放課後の電車で合流出来た時には、ちょっと感動したほどでした。


 

 


 こうして、週に二回、同じ電車で下校するようになった私たち。


 学園前駅16時50分発の普通電車の、後ろから2両目の前から3番目のドア付近が私たちの指定位置になり、途中、市役所前駅で彼らと合流してから、終点の伝言板横で解散するまでの数十分は、本当にあっという間でした。


 取り立てて面白い話をするわけでもなく、特に代わり映えしない近況を報告し合い、ただみんなで一緒にいるだけなのに、かつてこんなに楽しいことがあったかと思うほど、私たちにとって幸福な時間と空間になっていたのです。


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