「ソコカラ、ナニガ、ミエル?」
絵を描くことが好きだった。
自分の見る世界が正しいと信じ、そのままに鉛筆を走らせ、絵筆を踊らせた。紙の上に出来上がった世界の似姿で、私は自慢気に部屋の壁を埋めた。
だが、どんなに真剣に物を見ても、どんなに正確に描こうとしても、自分の絵は親にも先生にも評価されなかった。私の絵のゆがみやひずみは消えなかった。
目標の美術大学にも落ちてしまった。才能が無かったといえばそれまでだが、結果、私は自分の見ている世界に対する自信を失ってしまった。
見ている世界を、信じてはならない。それは間違っている。虹彩のフィルターで偏光され、脳細胞で偏向された世界だ。誰にも理解されない身勝手で孤独な世界だ。
美大を諦めた今は知り合いの紹介で、離島にある”ジャパリパーク”という一風変わった動物園の事務職をしている。日本とは思えないくらいの多様な自然を持つ広い地平を雄大な海が囲むこの場所は、とても心安らぐ場所だったが、それを見る事自体が、私をますます孤独にさせた。
むしろ、日々の業務に執心する事で私は気を紛らわしていた。パソコンに数字を打ち込み書類を形式通りに纏める作業を機械のように繰り返す。数字は嘘を吐かない。形式は他人と共有するためのルール。それに則ってやれば“正しい”のだ。他人にも理解されるのだ。
* * *
そんな日々の業務の合間、昼休みの食堂で、私は手遊びにふとプリント用紙の隅に馬の絵を描いていた。全くの無意識だったが。周りの意識まで無には出来ない。
「……それ、私?」
背後から声をかけられて、私は反射的に用紙を手で隠してしまう。
「いいえ、ただの遊びよ。見せられるものじゃない」
そう言って、その薄幸な声の主を見る。小さく突き出た耳と長い尻尾、髪の毛や服は灰色や紺色などの寒色で統一されている。最初はロバのアニマルガールと思った。だがその予想は彼女の光のない瞳によって否定された。
「あなたは……誰かしら?」
彼女は被っていた、くたびれたベレー帽を脱ぐとそれを片手にお辞儀をして答える。
「私は……ターパンです。お見知り置き下さい……」
聞き慣れない名前に私は戸惑うが、向こうはその反応は折込済みなのだろう。耳をピクリと動かして彼女はスケッチブックを取り出す。
「元々は……こういう姿でした」
そう言って彼女が見せた絵は、少し小さく、顔に丸みのある馬の絵だった。慣れない手付きだったのだろうが、それにしては、しっかりと整っている絵だった。だが、とても平面的だった。
「絶滅した野生の馬なのね」
「はい、私の生きていた頃の写真は1枚しかない……ので……それを参考に描きました……」
一切の寂しげなく、彼女は経緯を淡々と説明する。
私は、紙の上の手を退けて、先程の自分の馬の絵を見る。
「やはり……絵を描いてたんですね……」
その口調は少しだけ、喜びを含んでいた。
* * *
ターパン曰く、彼女は絵の描き方を教えて貰うためにわざわざキョウシュウエリアの草原を旅立ち、道中の管理センターを訪ね歩いてきたらしい。自分の絵に興味を持って、絵を描きたいというアニマルガールは集まって来たが、絵を描く人にはなかなか会えなかったそうだ。
「……だから……私達に、絵を教えて下さい」
「……申し訳ないけど、それは出来ない。私は絵が上手じゃないし、人に教えられる力量もない。他の人に頼んでくれないかしら」
ターパンはその言葉で一瞬下を向いた。が、まだ諦めず頼み込み続ける。
「お願いします……絵を近くで見てくれるだけで、いいんです、でないと……」
話しの途中で、彼女の背後から4、5人のアニマルガールの一群がゾロゾロと集まってきた。ヘビや鳥やネコ科、コウモリまで居る、あり得ないほど共通点のない集まりだった。
「遅いぜターパン、待ちくたびれて来ちまったよっ!」
ヘビの子が舌を出して疲れ切った表情を浮かべる。ターパンは一瞬肩を竦めた。
「それで……今回もダメそうですか?」
「もう疲れちゃったでしゅ~これ以上飛び続けるのはキツイでしゅ……」
明らかに不満げな顔に囲まれ、ターパンは首をもたげる。
「みんな……ごめん。次のエリア……行こう」
ターパンは一群をかき分け、猫背のままで歩き去る……私はいたたまれない思いに包まれた。
……予備校で何度もやり続けた素描の真似事くらいなら出来るかもしれない。結局周りに認められるまともな物にはならなかったけど、それで彼女たちの気が紛れるのなら……。
「……分かったわ。1日だけ付き合うわ」
そう言った瞬間、私の周りのアニマルガールは喜び勇んで飛び上がる。
「本当ですか?ありがたいです……」
「ターパンさんに着いてきて良かったですわ……」
ターパンははっと振り向いて、その短く切りそろえた髪と尻尾を翻しながら走ってくる。
「……あ、ありがとう……ございます……」
その嬉しそうな顔に私はやれやれ、とため息を吐く。目に映る世界を信じる純粋なその瞳を、どうか私に向けないで欲しい、と思った。
* * *
翌日、
広いホールぽつんと置かれた、茶色のささくれ立った簡素な机。
アニマルガールたちはその周りに円周状に並べた学校机に走ってくると、色鉛筆やクレヨンを取り出してもの珍しそうに眺めた。
「えっと……じゃあ、これからここに置いてあるものみんなで描きましょう、実際の物を描くときは、それをしっかりと観察する事が大事です」
少し苛立ちを覚えながら、少し語気を強める。
「しっかり観察して、正確に描きましょう」
何度も言われ続けた言葉、空で言えるほどだったが、ついぞ私には出来なかった事。ため息を思わず吐き、私は始めの合図をする。
「じゃあ、始め」
その言葉と同時に、私は机に事務室から持ってきた花瓶をそっと置いた。花瓶は陶器製の紫色、生けてある花は黄色の花弁をめいっぱいに広げている。
「観察なら得意分野です、お任せあれ」
「ふむ……なるほど……そうなってるのか……」
「いい匂いがする花でしゅ~、むふふ~」
アニマルガールたちはしばらくじっと花瓶と花を見ていたが、しばらくすると2,3人が色鉛筆やクレヨンを使って輪郭を描き始めた。
だが、その様子がおかしい事に気づくのにそう時間は掛らなかった。
まず、同じ色を使っているアニマルガールはほとんど居なかった。
最初は彼女たちのうち数人かがふざけているのだと思った。だが、段々と様子がおかしくなっていった。
ジャングルキャットの描く線はデッサンには似つかわしくなく、絵はまるで水の上に写ったかのように、ゆわんだ形状をしている。ハシブトガラスは黄色一色のはずの花びらを灰色に塗ると、その上から紫色で線を無数に引いていった、ブラックマンバは紫色のはずの花瓶を真っ青に塗りたくった、ウサギコウモリは花瓶の中の、見えないはずの花の茎まで描いている。
「出来た!」
「これで完璧っと」
「う~ん、ちょっと納得いってないけど、これでっ!」
一時間余りして、私の前に続々と集まってきた彼女たちの作品に、一枚として同じ物は無かった。いや、同じ題材を描いたことすら分からないものまであった。
困惑した。抽象画を描かせた訳じゃない。素描をさせたはずだ。だけどもこの有様は……。彼女たちの真剣な眼差しを見ている限り、私をバカにしてるようには見えない。だが、どうしても理解できなかった。
「……皆、ここでちょっと待っててもらっていいかしら。その間好きな物を描いていていいから」
全ての作品を輪ゴムで纏めると、それを小脇に抱え、私は廊下を走る。理解の範疇を超えた作品、違和感、不自然などという平凡な言葉を遥かに超えた作品たちを、このまま放置することは出来なかった。絵をスキャナにかけてデータ化してから、私は“知り合い”に電話を掛ける。
「もしもし、ミライ先輩。今、お時間大丈夫ですか?」
『わあ!お久しぶりですね!突然どうしましたか?』
私の高校の先輩であるミライさんは、後輩の私に対しても敬語で話す、とても律儀な人だ。だが、その清楚な外見や性格の内に、動物に対する深い知識と情熱を持っている。そんな先輩ならば、この絵を理解できるかもしれない。その期待を抱いて、私は経緯を説明しながら、先輩のウェアラブル端末に絵のデータを送信する。
『むむむ……はいはい。ほぉ~……。ふむふむ……なるほど。はい!だいたい分かりました』
先輩は始めこそ戸惑いがあったものの、絵とそれを描いたアニマルガールを説明すると、その声色は確信の響きを持って明朗になる。
「本当ですか……?……手短でいいので、説明して下さい。お願いします」
『はい、喜んで!』
* * *
藻でに澱んだ水の上にたゆたうような絵、ジャングルキャットの絵だ。
『ネコさんやイヌさんは赤色がよく見えず、視界が緑がかった色になっています。そして周辺視野が弱いので、輪郭線はぼやけています。しかし、花の茎のちょっとした傷や、花瓶のヒビはとても克明に描いています。物の急所に集中して描いたんですね~流石はハンターと言った所でしょうか』
次は黄色いはずの花を白に紫の筋を無数に入れて描いたハシブトガラスの絵。
『トリの仲間は人間を遥かに超えた視覚を持っている上、紫外線を感受する器官も持っているんです。だから昆虫などと同様に、紫外線によって糖分がある葉脈を見ることが出来るんです!凄いですよね……』
紫の花瓶を真っ青に塗ったブラックマンバの絵。
『ヘビの仲間は鼻先に付いたピット器官によって赤外線を認識します、熱を色として見る事が出来るんです』
補足として先輩から送られてきた写真は、赤外線カメラによるサーモグラフィー写真だった。冷たい缶ビールは真っ青に写っていた。そういえば……ふと、描いている途中に花が弱るといけないと思い、新鮮な冷たい水道水を花瓶に入れていた事を思い出した……。
見えないはずの花瓶の中の茎まで描いた、ウサギコウモリの絵。
『コウモリさんたちは障害物を超音波の反射で把握します。対象の距離や大きさ、動きまで把握することが出来るとても高性能なものなんです。専門用語でエコーロケーションと呼ばれてます、イルカさんたちもこれの使い手なんですよ~』
「でも、それだけでは中身まで描いている理由がまだ……」
『フフフ……超音波を使えば見えないものを見ることなんて、“赤子の手を捻る”よりも簡単なんですよ』
いたずらっぽく笑うミライ先輩。アクセントの付いた言葉の引っかかりを頼りに十数秒思考して、私ははっと気がついた。
「……お腹にいる赤ちゃんの検査……エコー診断!」
『大正解!』
ウサギコウモリは同じ方法で花瓶の中の茎を見ていたのだ。全身に衝撃が走った。
全ての絵について解説を聞き、私は一枚一枚の絵を真剣に見つめ直す。筆跡の一本、色の一色まで。
そして、気づいた。
「……そっか、」
まるでモノクロ写真のように描かれた絵も、歪んだように見える絵も、実際より何色も色の変化がある絵も、ぼやけた虹のような絵も、見えないはずの物まで描かれている絵も、
「……これ全部、正しいんだ」
全ての絵が、彼女たちの元々の動物の持つ感覚や機能を最大限使った結果生まれた絵だった。
『もちろんです!動物さんが厳しい自然を生き抜くためには、何よりもまず自分の見えている世界を信じて行動しなければいけません……そんな、自分の命を懸けて信じた世界が、間違っているだなんて、絶対に誰にも言えません!』
ミライ先輩も語気を強めて力説する。
私は思わず笑ってしまった。
先輩の真剣さを笑ったのではない。人間だけに通用する偏狭な世界の見方だけで私を認めてこなかった人々を嘲笑ったのだ。下らない価値観に囚われていた、いままでの私を嘲笑ったのだ。
そうと分かったら、立ち止まってはいられない。先輩にお礼の言葉を手短に述べると、私は彼女たちが待つホールへと駆け出した。高鳴る胸を抑えて落ち着いてドアを引き開ける。
「おまたせ」
「……あの……どうでしたか……上手く描けていましたか?」
ドアの開く音を合図に顔を上げ、不安げな表情を浮かべるターパンたちに、私は口角を上げてはっきりと宣言した。
「……全員、満点よ」
* * *
床に寝転んだり、イーゼルを使ったりしながら思い思いに尖った鉛筆を走らせるアニマルガールたちを見ながら、ターパンと私は壁に背中を付けて並び立っていた。不意に私は口を開く。
「残念だけど、私はあなたたちの先生にはなれない」
「……そ、そうですか……」
残念そうに俯く隣の彼女に、私は壁から離れて向き合った。腰を落として、目線を彼女と同じ高さに揃えた。
「だけど、一緒に絵を描きたくなったわ。……私も仲間に入れて欲しい。そして、みんなの見ている世界を見てみたい、私の見ている世界を見せたい……どう?入れてくれるかしら」
顔を持ち上げて、瞳を輝かせて、ターパンは問い返す。
「本当……ですか!」
「ええ。これから、どうかよろしくね」
交わした握手から、命を賭けた自信が伝わってくる。
分かった。私も命を懸けて、自分の瞳に映る世界を信じよう。信じた世界を描こう。
そして、あなたたちの持つ、誰にも否定できない正しさを、私も手に入れる。
それがあれば、もう絵が描けなくなることはない。
絶対に、ない。
* * *
「ここはもう危険だ!アニマルガールと飼育員に任せて、避難しろ!」
管理センターへセルリアンが向かってきているとの情報から、一般の事務職員は急いで避難を始めていた、しかし、彼女は絵や画材などを保管していた倉庫の鍵を開けて、ホールに広げる。
「離して!離して下さい!私もここに残ります!芸術祭を楽しみにしている子たちがたくさんいるんです!」
残れない事は分かってる。だけど、彼女たちが自分が避難した後も絵を描き続けられるようにしなければならない。その四肢は休まらない。
「ダメだっ!ここに居たら危険だ!死ぬぞ!命あっての芸術だろうが!」
制止する職員に向かって、彼女は必死の形相で睨み返す。
「……違う!……違う!」
そして腹の底から、自分の思いを吐き出す。
「私も、彼女たちも、命を懸けてこの世界を見てる!この世界を描いてる!生きることと描く事は一緒なの!」
職員は数秒固まった。だが、深く頷くと彼女の肩を抱き、その手を握る。
「……分かった、芸術祭はどんな事があっても開催させる。そのために俺たちも命を懸ける。約束しよう。だから、今は俺たちに任せてくれ。」
* * *
あの日の素描の時、花瓶と花以外に、わたしは画面いっぱいに向かいに座るアニマルガールの様子も一緒に描いてしまった。
――草食動物は、外敵から身を守るために、とても広い視野で周囲をよく観察する力を持っている、と聞いたわ。
だけど、みんなはその絵を見て、とても喜んでくれた。嬉しかった。
――でも今は、その力を使って、広い世界とたくさんの仲間を描く事が出来るのね。
だから、これからはみんなの絵をいっぱい描こうと思った。一枚の絵に、たくさんみんなを描こうと思った。
……今、わたしが一番絵を見せたい人は、もういなくなってしまったけど、わたしは絵を描き続ける。その人が企画してくれた”ゲージツ祭”を成功させるために。自分だけだった世界を、みんなで見る事ができる喜びを、あの人が教えてくれた喜びを忘れないために。広げるために。
そして、その人が戻ってきたとき、たくさんの絵を見せられるように。
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