指導対局

「なんやその指し手は? シシリアン・ディフェンスのつもりかいな。生兵法でオープニングの定跡なんか中途半端に覚えても正しく使えないんやったら、それ覚える時間で少しでも引き分けステイルメイトに持ち込む練習せえって言うとるやろが」


 俺たちは連日チェス部の部室に集まって、チェスの練習をしていた。今はかすりが俺に指導対局してくれている。


「引き分けの練習もしてるさ。でもオープニングであまりにも失敗してしまうと、引き分けに持ち込めずに負けちゃうんだよ。ちょっとでいいからこのシシリアン・ディフェンスってやつ教えてくれないかな」


 俺が頼むと、かすりは「ちょっとだけやで」と念を押してから、盤上の駒を数手戻した。


「ええか、白の三手目がこう指した時点で、黒だけが定跡どおり指してもシシリアン・ディフェンスにならへん。こうなった時は、黒はこう動かすんや、それで白がこう動くから、黒がこう。すると白はこう指さざるをえない」


 かすりが駒をせわしなく動かしながら、同じぐらい忙しく舌を動かして解説する。関西の人というのはどうにもせっかちな気がする。俺は「ちょっとまってくれ、棋譜をメモする時間が欲しい」と言って、慌ててメモを取り始める。俺たちの使っているチェス盤は、縦方向の縁に1~8の数字が振ってあり、横方向の縁にa~hのアルファベットが振られているので、初心者でも棋譜が書きやすい。


「……で、次がこう。そうするとシシリアン・ディフェンスのナイドルフ・バリエーションいうのに近い形が出来上がる」


「なるほど。で、こうなった場合、相手はどんな風に攻めてきて、こちらはどう守るのが正解なんだ?」


 かすりが懇切丁寧に教えてくれることを、細かくメモしていく。シシリアン・ディフェンスについて、基本的なことは一通り教わることができた。これ以上のことは、下校後にケイにスカイプで聞いてみよう。


「じゃ、このシシリアン・ディフェンスの形から、対局再開や。引き分けに持ち込む練習には違いないけど、シシリアン・ディフェンスは黒が勝つための定跡やから、勝てるなら勝ちを狙いに来てもええで」


 かすりがそう言って挑発する。せっかく教わった定跡を活かすためにクイーンサイドから果敢に攻めに行ってみるが、逆に反攻されて僧侶ビショップ騎士ナイトを取られてしまった。そこからはとにかく、どうにかしてステイルメイトに持ち込むことだけを考える。


「見落としが多いわ。何手も先を読めとは言わんから、せめて移動した先に敵の駒が効いてるかどうかくらい確認せえ」


 俺のキングをあっさりと詰ませると、かすりはそんな風にこの対局を総括した。


「遠くにある駒が効いてる時、どうしても見落としちゃうんだよ」


「盤面全体をちゃんと見ぃひんからや。三輪と他の二人との実力差はそこが原因やぞ」


 他の二人、というのは、もちろん徹子と竹代のことだ。実際、この二人は俺のように騎士だの僧侶だのをタダで取られるようなミスはあまりしない。俺も本番までにそのレベルには達しておかないと、引き分けにすら持ち込めずに負けてしまう。


「じゃ、次は矢場に指導対局したる。三輪は黒川とやっとき」


 かすりは徹子と対局を始める。俺はパソコンに向かっているケイの方へと歩み寄りながら、ふと竹代の姿がないことに気づいた。


「あれ? 竹代は?」


「『奥の手』の準備」


 例の、俺と徹子に内緒の『奥の手』か。何を企んでいるかしらないが、その準備とやらでチェスの練習が疎かになっていなければ良いのだが。

 その時、部室の戸がノックされた。


「あのう、石北です。頼まれていたチェスソフトの件でお話があるんですが、黒川さんいます?」


 ドアごしに石北海の声を聞いて、ケイが慌ててドアを開け、「しーっ」と人差し指を口の前に立てた。


「ケイ、なんで石北夫妻にチェスソフトなんて頼んだんだ? ソフト同士の対決じゃないだろ」


「なんでもない。奥の手に関係ある事とかじゃないから。本当に」


 どうやら奥の手に関係ある事のようだ。

 兎にも角にも、こんな風に、俺たちの二週間は過ぎていった。

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