安場かすりという女

「前から思っていたんだが、一般の生徒は図書室に入りにくいんじゃないか?」


 俺は、今更な疑問を口にする。放課後はほとんど毎日、変人部のメンバーが我が物顔で部室みたいに使っているし、変人部の集まりがない日でも、ここにはケイが住んでいる。他の生徒はさぞかし入りにくいだろう。


「いや、たまに空気読まない生徒が入ってくる」


 だから問題ないとでも言いたげに、ケイが答える。空気読まない生徒しか入ってこない時点で、やっぱり入りにくい空気なんじゃないか。

 そんな事を思っていたちょうどその時、誰かが図書室に入ってきた。肩までの髪を後ろで一つに縛った女生徒だ。彼女は俺たちを気にすることなく書架が立ち並ぶエリアに入っていくと、しばらくして二・三冊の本を小脇に抱えて戻ってくると、俺たちから随分離れた席に座って読み始めた。


「普通に本を読みに来たみたいだね」


「分類コード790の書架の、下から三段目の中央付近から本を取った気配があったから、多分チェスの本」


 ケイがそう言うので本当かどうか、女生徒の読書を邪魔しないように遠巻きにそっと何を読んでいるか確認してみると――『チェス定跡の研究』。横に積んである本も『棋譜から読み解くカスパロフの戦術』『FIDEグランドマスターが教える 勝てるチェス』とある。さすがケイ、書架のあたりはケイからは見えないはずなのに。


「チェスか。あっは、言われてみればあの女生徒、D組の安場あんばかすり嬢だな」


 竹代がつぶやく。


「竹代が知っていると言うことは、つまり変人だな」


「いや、そこまで変人でもないけどね。教室でも一人でチェスの本を読んでいたり、スマホをいじっていると思ったらチェスアプリをプレイしていたり、いつも一人でいるので気にしていたんだ」


 チェスは日本では将棋などと比べると愛好者が少ないから、あまり一緒に遊べる友達がいないのかもしれない。マイナーな趣味を持つというのも、ある意味変人の一種と言えなくもない。例えば趣味が女性の着用した眼鏡を集めることだったりしたら、そいつは間違いなく変人でしかも変態だろう。


「ちょお黙ってんか。人が読書しとる横で人のこと変人とか好き勝手言われたらかなわんわ」


 本から目を離さないまま、かすりが抗議の声をあげた。


「うわっ、関西弁」


「『うわっ』ゆうて何や。さっきからいろいろ失礼な奴らやな。失礼部の部員か自分ら」


 俺らがうるさいので、とうとう読書を断念したらしく本をたたんで、かすりはこちらを睨んだ。


「あっは、いやすまない。我々は失礼部ではなくて変人部のものだ」


「なんやケッタイな部の部員っちゅうのは当たってるんかい。そんでわたしに何か用なん?」


 めいっぱい不機嫌な顔で、かすりは訊ねる。


「分類コード289にあるカスパロフの伝記は読んだ? 結構チェスの専門的なところまで突っ込んで書いてあるから、チェスが好きなら面白いと思う」


 ケイがそう言うと、かすりのテンションが急に高くなった。


「カスパロフの伝記ってマジか。チェスの本のコーナーしか見とらんかったから伝記は盲点やった。読んでみるわ」


 そう言って分類コード289の書架へ走っていくかすり。本当にチェスが大好きなようだ。


「なんか安場さん見てるとチェスに興味わいてくるな」


 なんの気なしに俺がそう言うと、かすりはカスパロフの伝記を持ってシュババとこちらへ走り寄って来た。


「ホンマに?」


 あまりの食いつきっぷりに気おされて返事ができないでいると、代わって徹子が、「ルールくらいは覚えたい」と口をはさんだ。


「私の友だちの、元ソヴィエト共産党員がチェス好きだから、対戦できるようになりたい」


「どんな理由やねん」


 俺がツッコむまでもなく、かすりが的確に突っ込んでくれた。変人部にはボケ寄りの部員が多くてツッコミが大変なのだが、かすりがいると楽ができて良い。


「ほんなら、チェス部の部室に来ぃや。ボードも駒もあるから教えたる」


 かすりの招待に応えて、俺たちはチェス部の部室へと向かった。

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