ロケット
大和田の依頼は、予想外なものだった。
「ロケット?」
そうとも。と大和田は応じる。
「人間が乗れるようなものでなくても良い。地球の重力を振り切って、外気圏の外側まで達したことを観測できれば良い」
それにしたって、相当大掛かりなものになる。時計技師にすぎない大和田に造れるものではないはずだ。
「ぷふい、無理だろうね。確か地球の重力を振り切るのに必要な初速は第二宇宙速度と言うのだったな。ケイ、第二宇宙速度はというのはどのぐらいのスピードだったかな?」
「秒速十一.二km。実際には重力だけでなく空気抵抗も考慮しなければならないから、必要な初速はもっと大きくなる」
秒速十一.二kmは、音速の三十倍以上にあたる。地球の重力を振り切るためにはそれだけの速度の出るロケットを作らなければならない。
そんなのは、政府や大企業が何十億円もの予算を掛けて取り組むプロジェクトであって、大和田が『造りたい』と言い出したところで、そして俺たちが手伝ったところで、どうにもならないものであるはずだ。
「無理なのはわかっている。だが、この世界そのものの限界に挑みたいのだ。この世界が虚構にすぎないのならば、その虚構にはどんな性質があって、どこまでが限界なのかを知ることによって、虚構の外側の現実を垣間見たい。この世界が何者かによって作り出されたものだとすれば、この世界のすべてを知ることで、その何者かと対等に対峙したい」
それは、彼の猛烈なまでの存在証明であった。
世界すら存在があやふやなのであれば、そのあやふやな世界の性質を知り尽くすことで、あやふやでないものに到達したい。
自分のいる世界が、何らかの創作物の中だったとして、その創作物が現実の中に存在するのだとしたら。ここにこのような創作物があって、俺はその中にいるのだと、現実世界の人々にも届くほどしっかりと叫び得たとしたら、自分の存在を確たるものにできないだろうか。
脆弱な地盤の上に建物を作る際、硬い地層まで杭を打って基礎を安定させるように、この虚構かもしれない世界から、確たる世界まで楔を打ちたい。その楔が、ロケットなのだという。
「おっしゃることは何となく分かりましたがね。さすがに無理すぎる。世界の限界に挑むにしても、もう少し実現できそうな方法にしないと」
俺がそう言うと、大和田は沈黙してしまった。
重苦しい空気がしばしその場を支配した後、ぽつり、とケイが言った。
「方法はある」
全員がケイの方を見た。ケイは淡々と説明する。
「第二宇宙速度というのは、初速以外に推進力が与えられない場合に地球の重力を振り切るのに必要な速度。地表を離れてからも常に外部から推進力が供給され続けるのであれば、極端な話、秒速一ミリメートルでも何百年もかければ高度一万kmの外気圏外に到達できる」
「しかしケイ、地表を離れた後のロケットにどうやって推進力を加える? 初速を与えて地表から飛び立たせた後は、ひたすら重力だけがかかり続けるだけで、それに抗う力をどこからも供給しようがない」
竹代の反論に、ケイはスカートのポケットから点字で書かれた物理学の専門書を取り出してみせた。
「この本に書いてある。地球の地磁気に垂直な方向、つまり東西方向に強力な電流を流すと、フレミングの法則により上方向への力が生まれる。
無論この力だけでロケットを飛ばすにはちょっと力が足りないし、地表から離れれば離れるほど磁束の密度が
そう言ってケイはメモ用紙を取り出し、何やら計算を始めた。
「そのロケットに、何か載せなければならないものとか、そういう条件はある?」
ケイが計算の手を止めずに質問すると、大和田は部屋の隅の棚へ歩いていって、メガネケースほどの小さな機械を持ってきた。
「外気圏から脱出できたことを観測するために、これを載せたい。地表からの高度やなんかを算出して無線で送信する装置だ。宇宙空間でも機能することが保証されている」
ケイはその装置の重量と寸法を尋ねると、それをもとにさらなる計算を行った。
しばらくケイの鉛筆が紙の上を滑る音が続いた後、計算の手を止めたケイはこう言い放った。
「機体の重量を一〇三〇kg未満に抑えた上で、正確に地磁気と垂直な方向に八〇〇〇kwの電流を流すことができれば、初速は時速一二〇〇kmでも外気圏外に達することができる。空気抵抗を考慮しても」
時速一二〇〇km。それは、ジェットエンジンを使えば到達できない速度ではない。
大和田氏の突拍子もない夢物語が、にわかに現実味を帯びてきた。
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