行きおくれ

「寝ようと思って目をつぶってから実際に眠りに落ちるまでは、本が読めない無駄な時間」


 点字と関係ない話をいきなり始めるケイ。だがおそらく、点字を覚えた理由と関係のある話なのだろう。ケイは説明が足りないだけで、会話の通じないやつではないのだ。


「まあ、お前の価値基準なら無駄な時間だな」


 ケイの基準なら、本を読めない時間は全部、食事の時間もお風呂の時間も無駄でしかない。


「かといって目を開けていつまでも本を読んでいると寝付くのが遅くなって、寝坊して片平に怒られる。そこで私は考えた」


 ケイは本を指でなぞる手を止めずに話し続けた。


「点字を覚えれば、目をつぶってからも入眠直前まで本が読める」


 要するに、寝る直前の無駄な時間も読書にあてたいために点字を覚えたらしい。目をつぶりながら指だけで本を読めるようにと。健常者が点字を覚えると言えば、点の並びを目で見て読むことができる程度が普通だろう。だがケイは己の目的のために、指で点をなぞって形を判別できるところまで習得した。恐るべき読書への執念である。


 よく見ればケイの周囲の本の山は、点字の本が大半を占めていた。点字の本と言っても表紙に至るまで点字しか書かれていないわけではなく、デザインはシンプルなものの表題と著者名くらいは普通の文字で書かれていた。本の山から先程雪崩を起こして俺の足元付近まで滑ってきた一冊は、『江戸川乱歩 二銭銅貨』と書かれている。

 二銭銅貨のあの内容を、点字で読む……? なんだか頭が混乱しそうだ。挿絵とかはあるんだろうか。まあ、ケイなら二銭銅貨も過去に普通の本で読破ずみかもしれない。再読ならば点字でも理解できる、のかもしれない。


「しかし、なんでうちの学校にこんなに点字の本がたくさんあるんだ?」


 江戸川乱歩の推理小説から理論物理学の専門書まで、多種多様な点字の本がケイの周囲にばら撒かれている。うちに視覚障がい者が在籍しているとも、過去に在籍していたとも聞いたことがないのに、どうしてこんなに点字の本が潤沢にあるのだろう。


「私が職権を濫用したの」


 我々の右側、隣の司書室との間のガラス窓がある方から、大人びた声が聞こえた。

 見ると、生真面目な紺のスーツに身を包み、真っ直ぐな髪を胸のあたりまで垂らした女教師が、司書室にたたずんでいた。


「あ、行きおく……、じゃなくて片平先生、おはようございます」


「おはよう三輪由明くん、きょうもいい度胸ね」


 ガラス窓越しにこちらへ顔を向けている片平の目がすっと細くなり、口角はにこやかに円弧を描いて上がったが、額には青筋が浮かんでいる。


「あっは、さすがは片平先生だ。司書だからどんな本を仕入れようと勝手だろとばかりに、ケイしか読まない本をこんなに買い与えるなんて」


 竹代が片平の変人ぶりを褒め称えると、片平はまんざらでもなさそうに俺から視線を竹代に移し、ついでケイの食べ残した食器に目をやった。


「今日はいつにも増して食べてないわね……。今日のお昼ごはんは何がいい? 食べたくなくても少し無理してでも食べてもらうから」


「北京ダック」


 なんかすごいリクエスト来た。

 まあこれは、単に無理を言って困らせたいだけの、ケイなりの甘え方であって、絶対こいつ北京ダックなんて食べないだろうけど。


「北京ダックは今からじゃ無理ね。要するに鳥の中華料理……、棒々鶏はどうかしら」


 言いながらベニヤのドアを開いてこちらへやって来て、ケイの残した夕飯を片づけはじめた。


「じゃあ棒々鶏でいいや」


 ケイが妥協した瞬間、予鈴が図書室に鳴り響いた。

 デタラメ高校のチャイムは放送ではない。正門の正面にある時計塔のカリヨンが、町中に響けとばかりの音量で鳴り響くのだ。


 カラーン、カラーン、カラーン……


 校舎を震わせる鐘の響きは、鳴り終わった後も長い余韻を残した。

 だがいつまでも鐘の音の美しさを噛み締めているわけにはいかない。本鈴がなるまでに教室に着いていなくては。

 ほうっておくといつまでも本を読んでいようとするケイを引きずるようにして、俺たちは図書室を出た。


「あ、ちょっと待って」


 廊下へ一歩踏み出した時、片平が俺たちを呼び止めた。


「昼休み、四人とも図書室へ来なさい。話があるの」


「じゃあ、俺の分の棒々鶏も用意してくれますか? 今日は学校へ来ないつもりだったんで昼飯がないんです」


 俺が言うと、片平は一瞬その厚かましさにたじろいだ様子だったが、少し間をおいて、「ま、いいでしょう」と答えた。


「じゃあ、詳しい話は昼休みにね。今はもう行きなさい。私はきゅうりと鶏肉を買いに行く」


 片平は本当に棒々鶏の材料を買いに行くとみえて、俺たちが立ち去った後、司書室の鍵を掛けて外出する気配だった。

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