黒川ケイ

 図書室はカーテンが閉められていて、薄暗かった。

 図書室というものはかすかにカビっぽい匂いがしたり、製本に使われる糊かなにかの匂いがしたりするものだと思うが、俺たちが足を踏み入れたそこは、洗わずに一晩放置した弁当箱のような臭気がわずかに感じられた。

 匂いの元は、閲覧エリアの一画の長机に置かれた食器だった。猫のプリントされた可愛らしい茶碗の中に半分ほど盛られたご飯は、冷めてカピカピになっていたし、深皿に盛られたおでんもかなり食べ残され、こんにゃくに一口だけ囓った歯型が残されていた。

 そしてそのすぐ傍には、本がうずたかく幾つもの山を作っていた。その山々の中心に、図書室据え付けの背もたれのある木のいすを三つほど並べて、その上で少女が寝息を立てていた。

 本の山は、その眠っている少女が読むためにそこらの書棚からかき集めてきたのだろう。幼さの残る顔立ちのその少女は、おびただしい本に埋もれるように、その中の一冊にしおり代わりに右手の人差指を差し入れたまま寝入っていた。


「ケイちゃんおはよー!」


 空気を読まないことに定評のある徹子が、少女の気持ち良さそうな寝顔をものともせずに大声で挨拶すると、少女は眉根を寄せて「んむむ」とうなりながら目を醒ました。


「んむむ……。あ、徹ちゃんたち……。おはよー……」


 ゆっくりと少女が起き上がると、何冊かの本が彼女の身体から滑り落ちる。そんな状況でも、しおり代わりにしている人差指はしっかりページに差し込まれたままだ。

 眠そうに目をこすりながら伸びをしている、肩まで伸ばした髪の右側が寝癖でちょっと跳ねているこの子こそが、この高校一の変人、黒川ケイその人である。背も低く全体的に幼く見えるが、俺達と同じ高校一年生だ。


「おはようケイ。起こしてしまって悪かったけどもうすぐ予鈴だぞ。授業には出るという条件で図書館での寝泊まりを許可してもらっているんだろう?」


 竹代の言葉に、ケイは壁に掛けられた丸時計をちらりと見やり、大儀そうに本の山から今日の授業で使う教科書類を引っ張り出し始めた。


「それとケイ、そこに置いてある食事、片平が作ってくれたんだろ? こんなに残したら片平に悪いじゃないか」


 俺が言うと、ケイは教科書探しを続けながら机の食器類を一瞥し、興味なさげに言った。


「昨日は食事よりも優先すべき本があった」


 「昨日は」と言っているが、だいたい毎日食事より読書を優先しているくせに。


「もっと食わないと、……その、大きくならないぞ」


 終始緩慢な動作だったケイは、俺のその言葉に急にぴくりと反応し、両腕で胸元をかばいながら抗議の声をあげた。


「セクハラ発言……」


「ち、違うわバカ! 身長の話だ!」


 慌てて俺は反論する。正確には、身長の話のつもりで言いながら、話の途中でつい胸に目がいってしまった、が正しいのだが。


「由明は身長の話をする時、相手の乳頭付近を凝視する。ケイおぼえた」


「『ちぃおぼえた』みたいに言うな! ネタが古すぎて若い人はわからんぞ!」


 必死に突っ込みを入れる俺に構わず、ケイは予鈴ギリギリまで読書をするつもりらしく、起きる前からずっと指を挟んでいた本を開くと、紙面に指を這わせ始めた。


「あれれ? この本真っ白だよ?」


 徹子が素っ頓狂な声をあげる。確かにケイの読んでいる本のページは真っ白で、何も書かれていないように見えた。


「点字をおぼえた。これは点字で量子力学のエヴェレット解釈を説明した本」


 言われてみれば、確かにその紙面には細かな凹凸があり、ケイはその凹凸を指でなぞっていた。


「なぜ点字なんか覚えたんだ? 量子力学の解説書なんて、点字じゃなくてもあるだろう」


 というか、点字じゃない方が一杯あるだろ、量子力学の解説書。


「それは話せば長くなる」


 そう言ってケイは、点字を覚えた理由を語りはじめた。

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