第20話
「嫌な気配がするから来たら、貴方は何をするつもりですか」
その日鹿骨は初めて大阪を訪れていた。東京本社から大阪支社への移動が発表された翌日の事だった。
土地勘のない場所で地図を片手に商店街を歩いていると、日中なのにシャッターの半分閉められた店から黒い怨念が溢れていた。
覗き込んだ店の奥に立つ今にも包丁を指そうとしている相手を止めることもせず、鹿骨は淡々と告げた。
「もうあかんねん、死なせてくれ。かよのおらん人生なんか、もう耐えられへん。かよの所に行かしてくれ! 死なせてくれ!」
流れる涙もそのままに震える右手で包丁を握り直した。
「それはいけません。貴方はまだ寿命が残ってます」
「何やお前は! もう放っておいてくれ!」
毎日毎日、昔を思い出した。
一緒に遊んだ子供時代、恋に落ちた2人。店を構えた頃。毎年見に行った梅の花。美しく化粧をして眠る、最後の顔。
本当は店に来るのも嫌だった。ここには思い出が多すぎる。
でもここにいるとかよがまた帰って来てくれるような気がしていた。しかし誰も帰ってこない。毎日少しの希望と大きな絶望を繰り返し、もう魚吉は疲れてしまった。
「神様のつもりか!」
「神様ですよ、ただし死神ですが」
しれっと言い切った鹿骨は、土間に腰掛ける。
「このまま天寿を全うすれば、貴方は奥様がいる場所へ向かえます。しかし、このままその出刃包丁で自殺すると、一生会えません」
「は……何言うとんねん」
「本当の事ですよ。生まれ変わることもできず、二度と会えません」
商売人の魚吉は人を見る目に自信がある。目の前の男が嘘をついているようには思えなかった。眼鏡の奥の切れ長の目が淡々と見つめ返す。
「ほんならワシは、どうしたらええんや……」
魚吉の手から包丁が滑り落ちる。体から力が抜けて、畳に膝をついた。震える体から絞り出すような声だった。
「生きるのです。天寿を全うするまで。それ以外救いはありません」
その時「魚吉っちゃん何しとんねん!!」と大声が上がった。
同じく商店街に店を構えて45年の横の八百屋と、前の酒屋だった。
不思議な事に彼らは、魚吉の目の前にいる鹿骨をすり抜けて、直接自分へ話しかけている。気付いた時には、鹿骨の身体は半分以上透けていて、八百屋と魚屋の2人の顔が見えた。涙で顔をぐしゃぐしゃにして、大声で怒鳴っていた。
「何でも1人で抱えよって! ワシらは、そんなに頼りないか!!」
「魚吉のアホんだらぁ!」
自分を心配してくれる人がいる。かよの死を悲しんでくれている。
「ワシは1人じゃないんか……」
その事に気付いた時、鹿骨の姿は消えていた。落ち着いた声だけが、狭い和室に残った。
4番の一振りで阪神が2点先制したらしい。
テレビから六甲おろしが流れてきた。
「神様は厳しいな。死ぬことも許してくれへんのやから」
誰に聞かせるわけでもない小さな声は、歓声にかき消される。
「通りかかった出雲ちゃんを見たとき、あん時のワシと同じ顔しとった」
全てに絶望して、この世の終わりのような顔をしていた出雲。
「いらいらしたこと、悲しかったこと、嬉しかったこと、楽しかったこと。全部人に話すんや。嫌なことは半分になるし、嬉しかったことは2倍になる。恋人や友達じゃなくてもいい。物にでもおっちゃんにでも、話して口に出すことが大切なんや」
ワシもそうやって救われた。そう言って魚吉は笑った。
「さ、ご飯食べよ。1人で食べるから味気ないんや」
醤油に浸かったままのイサキを口に運ぶ。
「おいしい、です」
ぽたり、と使い古された卓袱台に水滴が落ちる。それを皮切りにぼろぼろと涙が溢れてきた。魚吉の少し白い目が我慢しなくても良いと言っていた。
出雲は大声を出して泣いた。
ショックだった。
自ら死を選ぶという人がいる事にも、人が死んだ後がこうなるという事も、知識ではあったが何も知らなかったのだ。
自殺した人たちの人生は、何だったのだろうか。
何を考え何を見、何に絶望して死を選んだのか。
家族は、恋人は、頼れる人は居なかったのか。
自分が死んでも泣く人はがいるとは、思わなかったのか。
「いっぱい食べ、食べんとあかん。死んでしまう」
次々に口に運んだ。コロッケも卯の花も刺身も、話し込んだせいで全部ぬるくなってしまっている。でも、久し振りに誰かと一緒に食べるご飯は美味しく、出雲の心を温かくした。
「思い返せばあれもこれもしてやりたかった。天満宮の梅も、もう1回見たいって言っとったけど、ついに見ることもできなんだ。でもな、そうやって後悔だけ抱いててもかよは喜べへんって気付けたんや」
ティッシュを差し出して出雲の頭を撫でる。
「ほんでな、こんなじいさん鬱陶しいと思うかもしれへんけど、よかったら偶にこうやって一緒にご飯食べてくれへんか?」
「いいえ……ありがとうございます! いただきます」
泣きはらした目で魚吉を見た。
透明感のある綺麗な黒目が、出雲に笑いかけた。
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