第19話

 一同の心配をよそに、翌日も出雲は出勤した。

 ただ、完全に勢いを失っていた。1日でこんなに人が変わるのかというくらい輝きを失っていた。

 出ていける訳がないのだ。出雲には金が無い。大阪に頼れる人もいない。友達も、少しだけなら泊めてくれると思うが、ずっと一緒なんて図々しいと嫌がるだろう。1人放り出されても、守られてきた自分では何もできないのだ。

 突きつけられた現実と、思い上がってた自分。

 入ってすぐに当たった壁は、壊せそうになかった。


 衝撃の1日から1ヶ月たったある日。出雲と鹿骨は此花区のアパートの事前見積りを終えて、車で北区の事務所に戻っていた。

 淀川左岸線からの帰り道は左手にユニバーサルスタジオジャパンのジェットコースターが見える。窓の外に顔を向けている出雲の視界にも入っているはずだが、ぼうっと夕日を眺めるばかりで何も反応をしない。

 鹿骨も無駄に口を開かない。車内はFM802のラジオDJが1人しゃべり続けていた。

 鹿骨の暴君ぶりは為りを潜めている。というよりも、自身も下から成り上がり、何人も社員を育ててきた立場なのだから、言葉づかいが荒い事とやり方が少々強引な所を覗けば教え方は悪くない。

 今日の現場の見積もりでも、至極丁寧に教えていた。室内残置物の物量から平米数を出す方法。管理会社との付き合い方。新入社員なら噛り付いてでも覚えなければいけない事を身を以て体験させている鹿骨は教育担当に向いているだろう。

 ただ、出雲の方が駄目だった。

 何も考えず、何も学ばない。ただただ言われるままに動く人間になっていた。


「書類できたか」

「はい」

 この1ヶ月間は社内業務をしていた。他の社員が見積もりに行った写真をパソコンに取り込み、物量計算と車両の選択をする。一見簡単そうに見えるが、トラックの大きさも知らなかった出雲にすれば目測で選択をするのは難しかった。

 必要人数の設定も失敗すれば迷惑がかかる。少なすぎては社員やアルバイトに負担がかかり、多すぎては赤字になる。

 あとはその請求書の作成。鹿骨は「小さい会社では全員が総務」と言った。その言葉通りやることはあまりにも多い。

 作成者の所に判子を押した書類を差し出す。今日は初めて社外に出ての見積もりだった。

 写真で見るよりもイメージが明確につく。20分ほどで仕上げたそれを上司に差し出した。

「いいんじゃねぇの。今日はもう上がれ」

「ありがとうございます、お先に失礼します」

「お疲れさま」同じく書類整理をしていた帝塚山が手を振った。

 着替えを済ませタイムカードを切ると午後6時だった。まだ日は高く、カーデガンの裾を揺らす風は夏の訪れを感じさせる。あと1週間もすれば梅雨入りだろう。

 夕飯時の商店街は自転車を押す主婦や、買って帰るだけの惣菜を吟味するサラリーマンの姿が見える。


 出雲はアーケードに守られた道の端っこを、のろのろと歩く。

「今日はイサキ、イサキええのがはいってんで、もう店じまいやから半額でええで!」

 威勢の良い声が道行く人の目を止める。魚屋の魚吉が手を叩いていた。

「お、姉ちゃん話すんは久し振りやな! 仕事終わりか?」

「はい」

「……何や、元気ないな」

 魚屋は、久々にみる娘があまりにも変化していることに驚く。前は服装もぴらぴらしていたのに、今はジーパンにTシャツとカーデガンで、買い物に来る主婦と変わらない格好をしている。

 何よりも顔に生気が無かった。げっそりと痩せて化粧をしていても顔色が悪く、目の下の隈と少し浮いた頬骨が哀れだった。

「そんなことないです」

「今から何か用事あるか?」

「いえ、家に帰るだけです」

「ほんならちょっとおっちゃんに付き合ってーな」

 こっち来ぃ、と水で濡れる店内に手招きする。

 意味が解らずその場で足踏みする出雲に、後ろから来た肩にそばを担いだ自転車がベルを鳴らす。「道の真ん中につっ立っとったら危ないで」と再度呼ばれ、発泡スチロールの積まれた間を通り抜ける。

 店の奥の一段高いところには、畳が敷かれている5畳ほどの和室があった。

 真ん中に丸い卓袱台と、手編みのレースが掛けられた古ぼけたアナログテレビが置かれている。端にはえんじ色の座布団がいくつも積まれてあった。

「ちょっと座っとき」

 テレビをつけて魚屋の主人はまた店先へ戻って行った。

 テレビの中では野球のナイター中継が行われている。阪神対巨人の伝統の一戦を観に、花金より1日早い木曜日の夜なのに甲子園は満員御礼らしい。

 選手の応援歌の合間に水を流す音とブラシでこする軽快な音が聞こえる。最後にシャッターを半開きにした所で「阪神勝ってるか?」と魚吉は長靴を脱いだ。

「今始まったばかりだと思います」

「ほーか、じゃぁメシにしよ」

「え?」

 手にはビニール袋とおおきな皿を持っていた。

「姉ぇちゃんはチューハイか? それともビールもあるで。小洒落た酒は無かったわ」

 あの酒屋相変わらずしみったれとるわ。と文句を言いながら料理を卓袱台に広げる。

 瓶ビール、桃の缶チューハイ、コロッケと卯の花、それに大きなイサキを丸ごと刺身にしたものが置かれた。

「パーチーやな。焼き鳥屋は忙しそうやったから無いけど。ほな、乾杯」

 グラスを掲げられて開けてないチューハイを差し出す。ゴチンとぶつかる音に我に返る。

「え、あ、お金、お幾らでしたか」

「なーにを若いモンが気ィつかっとんねん。かまへんかまへん早よ食べよし」

 ワァ! と大きくなった歓声に視線がそちらに向かう。

 醤油を満たしてチューブのわさびを絞った小皿を差し出す。

「で、ワシは柴田魚(しばたうお)吉(きち)。魚(うお)吉(き)っちゃんってここ等では呼ばれとる。姉ちゃんは名前なんて言うんや」

「杵築出雲です」

「いずもか、良い名前やな。さ、食べ食べ」

 勧められた刺身を一つ口元に運ぶが、魚独特のにおいにうっ、とむせてしまう。

「魚アカンか」

「いえ、すいません……」

 刺身なんてここの所全然食べていなかった。現場を2つ梯子したあの日から何も食べる気がせず、ゼリーやカロリーメイトみたいなものしか口にしていなかった。

「死体見たか」

「え……?」

「出雲ちゃん天神橋の、会社名何て言うたっけ? 遺品整理ん所で働いてるやろ」

「何で知って……」

「あの辺散歩してる時に会社に入ってく所見たからな」

 魚吉はぐい、っとビールを煽る。そしてぽつりぽつりと話出した。


「……ワシもな、前に世話になったんや」

「ウチに、ですか」

「おう、って言っても遺品整理やないけどな。あの子らみんな死神か何かやろ」

 驚きで息が止まった。何故知ってるのか。

 固まった出雲を見て魚吉は豪快に笑う。

「死のう思たんや。ワシの嫁はんが死んだときに」

 魚吉は今年で70歳になる。

 天神橋筋商店街に店を構えたのが1966年。東京オリンピックから2年経った年の頃だった。

 幼馴染の「かよ」と連れ添い、約50年。来る日も来る日も日の昇らない内から大阪市中央卸売市場へ行き、魚を仕入れた。

 かよが死んだのは5年前だった。享年65歳、癌だった。

「なーんもする気が起きんひんくてな。何も食べられへんかった。毎日酒ばっかり飲んどった」

 夫婦には子供がいなかった。親兄弟もとうの昔に亡くなった。魚吉の孤独をわかってくれる人はいないと思い込んでいた。

「嫁はんおらんかったら、なーんもできひん。男はあかんな、あかんたれや」

 かよは長く入院していたから、1人ぼっちの家には慣れていた。それでも、この世にいないというのはまた違う。魚吉の横腹から寂しさが染みて広がった。

「衝動的やったな。ここでな、嫁はんの写真の前で商売道具の出刃で腹刺そうとおもったんや」

 テレビの上の長押に飾られたカラーの写真は、どこかに行ったときの写真を使ったのだろう。白髪頭で顔中を皺いっぱいにして笑うかわいらしい女性がいた。彼女がかよだろう。

「そしたら出雲ちゃんところの鹿骨さんが来たんや」

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