第16話
ここに居てはいけない。
その思いだけで階段を下りた出雲だったが、ふらついた足では車に戻ることもできなかった。
マンションの入り口に座り込み、もう一度吐いた。バケツの底に溜まった吐瀉物と違って、もう水の様な胃液しか出なかった。
鼻の奥や自分の身体から、血の匂いがする気がする。
初めは小さかった震えも、バケツを持つことができないぐらいに大きくなっていた。
どれぐらいの時間が立ったのだろうか。先ほど見た光景を忘れようと膝に顔を埋めてひたすら心を無にしていた。
そんな出雲の横を白色の防護服を着た人が何人も通り過ぎる。
自殺があったことは近隣住民も知っているのだろう。物珍しげに入口を覗いたりするが、中に入ったのは作業服の男たちだけだった。
「大丈夫?やっぱりショックだったよね」
特殊清掃員が入ってしばらくすると帝塚山と鹿骨がエントランスから出てくる。
出雲がぐったりと背を預けている自動販売機で水を買い、差し出した。
口をゆすいで一口飲んだが、冷えた水に体が拒否した様に戻してしまう。
「わかってたんですか」
ジャージの裾で口を拭いた出雲は、二人を睨みつける。
声が震えている。
「こんなの詐欺だ。私は遺品整理の仕事って聞きました!」
「現場に出すとも言っただろう」
「こんななんて、聞いてません! こんな、こんな!」
ヒステリックに叫ぶ。
うっとおしそうに顔を顰め、耳に手を当て「近所迷惑だ」と言う。
「辞めるか? 別にかまわないぞ。何を思い上がっているのか知らないが、お前は姿が見えると言う理由だけで雇ったんだ。代わりはいくらでもいる。
それに詐欺だと言ったが、すべて説明している。契約書にもきちんと書いてある。お前は自分の意志でそれに署名捺印をした。まさか内容を読んでないのか?」
出雲の顔色が青から白に変わる。
今、この人は何と言った。呆然と鹿骨を見上げる。契約書の事ではない、その前だ。
信じられないといった表情で唇を震わせる。
「誰でもよかったんですか」
「そうだ」
「そんな……」
出雲の前にしゃがみ込んだ鹿骨は細い眉を寄せる。
「お前もそうだろう。給料が高くて家がついてるから内容はどうでも良いから応募した。面接の時から透けて見えてたんだよ。人の事言えるのか?」
見抜かれていた。出雲の身体がビクリと震える。
反論の為に息を吸った時、鹿骨のPHSが鳴る。
「はい鹿骨です」
『もしも~し、一件緊急対応が入ったよ~』
空気を読まない間の抜けた声の相手は御厨だ。今日は現場には参加せず事務所で電話番をしている。
『管理会社からのオシゴトだよ。詳細はメールで送ったから確認してね、結構キツイみたいだから頑張ってね~』
鹿骨と帝塚山は自身のスマホに入った転送メールをチェックする。
「辞めても結構。荷物まとめて明日には出て行けよ。今日の分の日給ぐらいは払ってやる。だが今からの現場には来てもらうからな。お前も社会人なら仕事は最後まできちんとしろ」
出雲の方を見るわけでもなく、鹿骨は車に乗り込んだ。
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