第8話
会社前に着けられたシルバーの社用車に乗り込んでシートベルトを締める。小さく開いた窓から明るい光と暖かな香りが通り抜ける。
「桜は少ないけど、大阪天満宮は梅が有名なんだよ」
「そうなんですね」
狭い道でも車の通行は許されているらしい。道の真ん中でゆっくり歩く老人にクラクションを鳴らすことなく、帝塚山は穏やかに車を運転する。そのまま車で10分ぐらい走った所で、細長いマンションの入口で出雲を降ろした。
駐車場に車を止めた帝塚山が小走りで戻ってくる。
「帝塚山さんも、ここに住んでいるんですか?」
「いや、僕は車を支給されているからもっと遠いところに住んでいるよ。杵築さんにはしばらく車の支給の予定はないし、女の子だからあんまり遠い所にするのも危ないってことでここになったんだけど、気にいって貰えるかな」
どうぞ、とオートロックを解除して、突き当りのエレベーターに乗り込む。最上階の9階まで上がり、帝塚山は出雲にカギを渡した。
「わーすごい!」
リフォームしたばかりなのだろうか、新築の家のような木の香りがする。
入ってまっすぐ進むと、5畳のダイニングキッチンがある。あまり料理はしないので、IHの2口コンロで事足りる。その先の擦りガラスの引き戸を引くと、8畳の洋間が広がっている。明るい色のフローリングは貼り替えたばかりで真新しく、壁も真っ白だ。収納もある。
大きめの窓からは光が十分に入ってくる。バルコニーに出ると、大阪の街を眺めることが出来た。
「どう? 2重ロックだしドアフォンもついてるから、セキュリティ的には大丈夫だと思うけども」
「十分です! こんなに良い部屋ありがとうございます!」
田舎出身の出雲は、初めて今の部屋を見たときマッチの箱の様な小さな部屋に驚いた。島根の実家は、自分の部屋でも10畳はゆうにあったので、ベットを置くだけでこんなに場所を取る部屋でどうやって生活すればよいのだろうかと感じたものである。
しかし4年も経てば改良を重ねた自分の城に満足している。ましてこの部屋は2倍ほどの大きさがあった。
「よかったよかった、じゃぁもう1回会社に戻って、社宅の誓約書書こうか」
「はい!」
トイレと風呂場を見に行った出雲は嬉しそうに頷いた。
社宅の誓約書を書いた後は、就業の17時までひたすら業務に関する冊子を読んでいた。
会社にも帝塚山のPHSにも頻繁に連絡が入る。受話器を肩に挟みながら忙しそうにパソコンを叩く帝塚山を横目に、出雲は会計ソフトを立ち上げたりビジネスマナーの本を読んだりして時間を潰した。
見慣れた部屋の玄関に荷物を置くと緊張していたのか、どっと疲れが込み上げてきた。
今週は今日1日だけ出勤して、明日は土曜日。さっそく引っ越し業者が荷物を取りに来てくれる。
出雲は自分の見る目を褒めてやる。引っ越し費用も全額会社負担だ。時機の過ぎた新入社員に至れり尽くせりのこの状況。なんて良い会社だろうか。
積まれたダンボールは、部屋の半分以上を圧迫している。引っ越し業者から一人暮らしならこれぐらいですよと渡された40枚じゃ到底足りないぐらいだった。
必要最低限の物しかないすっきりとした部屋を見渡して、この部屋で過ごした4年間の重みを噛み締めた。
レトルトカレーで夕飯を済ませ風呂に入り、普段なら夜更かしする所早々にベッドに潜り込む。
慣れない事に疲れたが、気持ちは晴々としていた。
これで、きちんと生活ができる。これからは社会と名の付いた姿の見えない誰に対する負い目も感じることも無い。自分1人の力で生きる、憧れの社会人だ。
充電器に差しっぱなしのスマホのアラームの確認をし、目を閉じた。
労働の後の眠りは深く、柔らかかった。
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