実務、そして挫折編

第7話

 初出勤は4月26日の金曜日だった。やけに中途半端な時期からの出勤だと思ったが、給料の締日が毎月25日らしい。


 地下鉄のぬるい風を追い風に、ようやくリクルートスーツを脱ぎ捨てた出雲が地上へ降り立つ。

 事務作業の日は、規定の制服はない。オフィスカジュアルであれば可ということで、出雲は合格の連絡を受けたその日に梅田の服屋へ向かった。

 長い間買っていた雑誌の「新人ОL着回し30日」のコーナーが活躍する日がやっと来た。真新しいひざ丈のスカートに軽い素材で出来たジャケットを羽織って、商店街を颯爽と歩いた。

「今日は鯖安いでサバサバサバ、鯖買うたって!」

 商店街の魚屋は今日も魚を売りつけようとしてくる。途中で買ったスタバのコーヒーを片手に気分はオフィスレディだった出雲は、興を削がれたように眉根を寄せた。

「お、この間のスーツの姉ぇちゃんやないか」

「よく覚えていましたね」

 出会い頭にお菓子を貰うという強烈なインパクトがあったので、出雲の方は覚えていたが、まさか相手も覚えているとは。地元の寂れたシャッター街と違い、毎日たくさんの人が行き来するであろう道でたった一度通っただけの人間を認識できるものなのだろうか。

「そらワシらは商人やから、人の顔覚えんのなんか朝飯前や。今から仕事か?」

「はい」

「そーか、がんばりや、飴ちゃんあげよ」

 汚れた前掛けのポケットから取り出したのは、今日は薄荷の飴だ。懐かしい緑色のフィルムに子供がこんな刺激物を食べれるわけがないのに、小さい頃祖母が執拗にこの飴を渡してきたのを思い出す。

「はぁ、どうも」

 家に帰ったら捨てようと鞄の中に放り投げ、通り過ぎた。


 事務所に入ってすぐに感じたのは、コーヒーの香りだった。その深い香りは外観の古さと相まって、カフェなどではなく小学校の職員室を思い出す。

 面接時は緊張して見れなかった蛍光灯が爛々と照らす事務所を、出雲はもの珍しげに見渡した。

 デスクが5つ置いてある。4つは向かい合わせにくっつけられ、少し離れたお誕生席に1つ大きめのデスクが設置されていた。

 机の上にはいろいろ置かれてあった。離れの席には書類が山ほど溜まっているのに、その他の机にはあまり書類は置かれていない。今日日どの職種でも必要不可欠なパソコンは、3台しか置かれてなかった。

 その代わりになぜか大きなダンベル、女子に大人気のブランドのもこもこしたブランケット、鏡。おおよそ仕事に必要なさそうな物が卓上に溢れていた。

 見る限り社内のルールはあまり厳しくないのかもしれない。


「おはよう」

「おはようございます!」

 背後のドアが開き、すらりと背の高い男性が入ってくる。

「改めまして大阪支店課長の帝塚山(てづかやま)優狸(ゆうり)です」

「はい、杵築出雲です! 本日よりよろしくお願いいたします!」

 改めて見ても綺麗な顔をしていた。

 ハーフだろうか。色素の薄い髪を、サラリーマンらしく短く切っている。今まで自分の周りにいた男達とは全く違う。これが社会人か……と妙な所で感動してしまった。

「この3ヶ月は、私たち大阪支社の社員が、君がわが社に合っているか適性を見極める期間でもありますが、君がわが社で働きたいと思うか吟味する期間でもあります。一緒にがんばりましょう。といっても、万年人不足だから、つきっきりってわけにはいかないと思うけど」

 わからないことがあったら何でも聞いてね、と人の良さそうな顔に苦笑いを浮かべて、右手を差し出した。

 その手を握り返しながら出雲は、あの眼鏡の怖そうな人今日居ないのかな、と思った。

 今日は外に出ているのか、事務所内には帝塚山しかいなかった。面接の時に座っていた他の2人もいない。

 眼鏡をかけていた男性が中心となって面接を行っていたので、てっきり出雲はあの男性に指導されるとばかり思い込んでいた。

「じゃあさっそくだけど、必要な書類に記入してくれる? 印鑑持ってきた?」

 白色の真新しいパソコンが置かれた席へ案内される。

「ちなみにここが杵築さんのデスク。右が僕で、そこの離れは部長の席だから。名刺と手帳は指定の物を使ってね」

 使い込まれた印象のグレーの事務机の上には、プラスティックケースと真っ黒な手帳が置かれていた。

 小さく軋ませて椅子に座り、ケースを手に取る。中には明朝体で印刷されたシンプルな名刺が入ってあった。

 ――有限会社トート総務部 杵築 出雲

 手に取ると驚くほど軽い紙でも、出雲の心に重く落ちる。

 もう一度事務所を見渡して、あぁ、自分も社会人になったのだと改めて感じた。 全く知らない所に1人。緊張、不安、それよりも大きな期待。新しい人生が今日始まろうとしている。名刺を小さく爪弾いて、気合を入れた。

 帝塚山は出雲の左隣に座り、手際よく薄いブルーの封筒から書類を取出し、説明を始める。噛み砕いたわかりやすい説明に頷きながら、上等な紙にハンコをついていく。

「あらかた終わったら、下に降りてくれる? 車回してくるから」

「車?」

 壁に掛かった小さなキーバンカーから社用車①と書かれた鍵を手に取る。

「社宅の案内、遅くなったけど今日するから」

「ありがとうございます!」

「ゆっくりでいいから漏れのないようにね。書き終わったら僕の机の上に置いておいて」

「はい」

 帝塚山の一言に、出雲の脳内はまだ見ぬ引っ越し先へとトリップした。

 社宅はどんなところだろうか。車で行くというぐらいだから会社からかなり離れているのだろうか? 5分以内にコンビニが無いとやっていけない。

 入社誓約書はA4用紙に小さな文字でびっちり海を作っている。こういうものや携帯電話の契約書など、法律を絡めて書かれて一体日本人の何割がきちんと読んでいるのだろうか。

 昔から文字を読むのが大嫌いな出雲は流し読みし、さっさっと署名と押印を済ませ作業を終わらせた。

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