第416話、当たり前と思ったらこわれてく、同じことは二度とない、悲しいけど
うれしいこと、たのしいこと、しあわせなこと。
そんな喜びたちがずっとずっと続きますように。
それが、名づけの由来であると。
彼女の大好きな主の願いであると。
勘違いして生まれた、一匹の子犬。
彼女はファミリアのようでいて、本当のところはファミリアではなかった。
主のために主を。
まさしく、面白おかしく笑わせるために存在する道化師のようで。
今も昔もそばにいない、家族そのものでもあって。
生まれ落ちて主と出会って。
一目で大好きになって。
持ちつ持たれつの比翼のような、姉妹のような間柄。
純粋で素直でかわいい主をからかいじゃれあう、そんな日々がずっとずっと続くのだと思っていたのは。
しかし、最初の僅かな時間であった。
主にとっての運命の人が現れることによって。
それこそすべてが一度壊されて作り直され、新たな関係が形成されたからだ。
どんな時代、どんな世界でも、これ以上ないくらいお似合いの二人。
からかい、あそび、生温かく見守る人物がもうひとり増えて。
つけられた名前の通り、ますます嬉しい日々が続いてゆく。
そんな筋書きであったのならば。
何もかもうまくいったのだろうか。
今となっては知りようもないけれど。
初めは、共に在るうちに彼女の中に溢れる感情が、なんであるのか分からなかった。
それは、大きなかたまりとなって、その小さな身体を包み込んで。
受け止めきれず、いなせなかったのは。
愛すべき主の運命の人なのだから、仕方がないこと、だったのかもしれない。
彼女は二人の間に挟まれて。
二人をからかい、楽しませる道化になりたかったのに。
なれなければいけなかったのに。
生まれてはじめて火がついたその感情を、どうあっても消すことはできなかった。
想うこと。
黙っているだけで主に対して裏切っているような気がして。
彼女は主と同じ言葉を口にし、その想いの丈を吐き出してしまう。
それは、今となっては彼女にしてみれば相当にらしくない、黒歴史と言ってもよかっただろう。
しかし、彼女の主は『そんなこと、当然なのだっ』と。
まるで最初から分かっていたとでも言いたげに、彼女の想いを肯定してくれたから。
結果的に見ればよかったのかもしれない。
彼女が彼にその想いを口にする術は持ち合わせてはいなかったけれど。
一蓮托生な……そんな主との秘密の共有は。
より一層お互いの絆を深めていったのは間違いなくて。
彼女にとって『そのこと』こそが、一番の心の支え、存在理由となったのは間違いなくて。
たとえこれから二人に何が起きようとも。
自分が守りぬく。
彼女はそんな、生まれた喜びを噛み締めて。
変わらずに二人の愛玩動物として、過ごしていて。
「このわからずやのわんこめっ! てつだってくれたっていいじゃないかぁ! 世界がおわってしまうかもしれないってのに!」
同じような立場で。
傍から見れば痛い立ち位置の一匹の猫が。
彼女に詰め寄って凄んでいる。
愛らしさなら引けを取らないだろう猫のそんな必死さを目の当たりにして。
小さな犬でしかない彼女は、外っ面はともかくとして戸惑い苦笑を浮かべるしかない。
彼女と同じような名を与えられし猫は、大切な主のために世界の危機を救いたいらしい。
友達、といってもいい猫と顔を突き合わせると、彼女の口からははいつも皮肉めいた意地悪なことばかりついて出てしまうけれど。
猫な彼女のことは、主たちの次くらいには好きであったし、できることなら手助けしてあげたい、などと思ったのは確かだったが。
「わからず屋でけっこう。わたくしの第一は主さまなのです。……そもそも、いち愛玩犬が世界を救うだなんてだいそれたこと、できるわけがないと少し考えれば分かるでしょうに。このおばかにゃんこは」
「あーっ、ばかってゆったぁ! そういう方がばかなんだからねっ!! ……もういいよっ、ジョイがひとりでがんばるからっ!」
むしろ、教えてもらって助かったと。
だからこそ主たちを何よりも優先すべきであると、裏腹な言葉がついて出てしまう。
単純で、素直なところが主にちょっと似ていて好ましい猫な彼女は。
そんな子犬の言葉を鵜呑みにして、結局喧嘩別れのような形になってしまったけれど。
「あなたがそう口にしたのならば、きっと何があってもひとりで自らを犠牲にしてでも命を全うするのでしょうね」
ならばこそ、つれなくして油断しているうちに。
猫な彼女の役目を奪ってしまうのもありだろう。
子犬な彼女は、誰に言うでもなくそうほくそ笑んでいて。
それからと言うもの。
彼女は誰にも気づかれぬようにと、しかしそれが生来のもので、不可能であると理解した上で奔走する。
口(なく)だけの矮小な子犬でありながら、主の目を盗んで様々な場所に顔を突っ込み、散歩にでかけた。
犬も歩けば棒に当たる。
なんてこと、いつも期待と不安がせめぎ合っていたことを自覚しながら。
そうして、彼女がいつものように主の目を盗んで散歩にでかけたある時。
彼女は、人間の男の中でも殊更有象無象に紛れて、顔の覚えられない存在……カオナシと出会う。
カオナシ男は初め、いたいけでか弱い子犬を、虐めて悦に入るような……特に思い出したくもない無象で無頼な男であった。
だけど、主を。
主の運命の人の名を口にした途端、ガラリと変化した。
助けを呼んだことで入ってしまった、どこかおそろしいスイッチ。
―――本当ならば。
そんなタイミングよく危機一髪で助かるなんてことありえなかった。
彼に、その事実を悟られることもなく。
カオナシの男は、まるで長年探していた同志でも見つけたかのように、口を開いたのだ。
「いいんですか? そのままで。届かない想いを抱いたまま命をまっとうする。こんなに悲しいことはないじゃないですか。僕は、どうしたってそれが許せないんです。一番だと思っていたその人が、心底憎くなるくらいには」
同族嫌悪、だったのだろうか。
まるで、あなたとわたしは同じだとでも言わんばかりの態度に。
状況も忘れて一笑に伏したい気分だったけれど。
「……だったら、どうだと言うのです?」
そんな方法などあるものかよと。
諦観の一言でありながらどこか期待をもって、そう問いかけてしまっていて。
「憎んでしまうくらいならそんな想い、いっそのこと忘れてしまえばいい。
僕にはそれができませんが……あなたならば可能でしょう。それは、とてもとても羨ましいことです」
返ってきた答えは。
おおよそ予測していたものとは、まったくもって違っていて。
始まりの、主のためのたったひとりの道化に戻れるような気がして。
彼女は、悪魔とも天使ともつかぬ、カオナシ男の誘惑に乗ってしまったのだ。
……この、どうしようもできない『大好き』を忘れてしまえば。
いつでも心を蝕み続ける痛みを解消できるのだと。
本末転倒だと、重々理解していても。
藁にも縋る思いで。
―――そうすればきっと、世界は救われる。
主と彼が、生きる喜びに笑っていられる。
それを邪魔しようとする、何より自分自身が。
『いなくなる』、のだから……。
(第417話につづく)
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