第415話、リンゴは落ちてしまった、ナイフのように突き刺したサヨナラとともに



―――そうして。



虹、そのものの奔流に巻き込まれた、黒き炎のケモノは。

その七色に溶けいくようにして、その身を滲ませてゆく。


虹色と混ざり合い、儚く消えよ、といったところで。

黒色が取り残され、そこには一匹のパピヨン犬が具現する。




まるで、夢のように。

ふわふわするのに、何だか身体が熱い……熱に浮かされたような気分で。


知己は、そんなきくぞうさんを見ていた。

ただただ、目を覚ました時に、ひとりぼっちでないようにと、見守っていて。




『…………ふかっ』


やがてきくぞうさんは、特徴的だけどかわいいくしゃみをひとつして、目を覚ました。



『お、きくぞうさん。ようやっと目をさましたな』

『……きゃん!』



知己の声を聞いて、垂れ下がった左耳のふさふさな毛がぴこりと跳ね上がる。

そして、そのまま覚醒するやいなや、ぶんぶんと尻尾を振って起き上がり、一声鳴いて知己を見上げてくる。



『いつもののごとく、美弥が探してたぞ? さぁ、一緒に帰ろう。美弥がごはん作って待ってる』

『きゃんきゃん!』



直視できない可愛さに、知己は目を細めながら手招きする。

かわいいものに目がない、鍛え抜かれたもふなでリストな知己は、自ら触りにいくような愚は犯さない。

なでもふさせてやろうと、きくぞうさんがお腹を見せて寝そべるまで、ただひたすらに耐え忍び待つのみである。



しかし、そんな内心の知己の葛藤なんぞ、きくぞうさんは知る由もないわけで。

尻尾のふり具合をより一層激しくしながら、何かを催促するかのように声上げて、そのまま知己めがけて飛びついてくる。


もふんと、軽い衝撃。

知己は何抵抗することなく、それを受け入れる。




『……なんだい。もうお腹、へっちゃったのか? あ、そうだ。きくぞうさん。みゃんぴょうみたいに『ごいんだ』が好きだったよな。ちょうどひとつ、持ってきたんだ。食べるか?』

『きゃん、きゃんきゃん!!』



それは偶然なんかじゃない。

最初からあげるつもりで、知己はそれを用意していたのだ。

実はいくつか持ってきていたのだけど、そのほとんどは法久のリュックにしまっていて。

あるいは、知己自身の力で虹色焼きリンゴ状態になってしまっていて。



あったのは、こんなこともあろうかと用意していた内ポケットに入っていた、小さな姫リンゴ。

さっそく、餌付けからのなでもふ許可を得ようと、それを懐から取り出そうとして。





「…………っ」


知己からもれ出たのは、小さな吐息。

その手にも力が入らず、手のひらよりも小さな、きくぞうさんが食べるのにはちょうどいい多きさの『ごいんだ』が。

ぱしゃりと赤い飛沫を立てて、転がり落ちていく……。




「……ああ。ごめんな。これじゃあ、食べられないなぁ」


今持っているのはそのひとつだけだったから。

地面に、知己自身を染める赤、紅、アカ色した水に沈むそれを目の当たりにして。

知己は残念そうな、悲しげな呟きをこぼすと。



そのまま……ゆっくりと前のめりに。

その赤色へと倒れ込んでいく。




その赤色は、知己自身から溢れ出し湧き出したもの。

背中の部分にも、小さな……少女の腕ほどの穴が空いていて。

赤い赤いナイフが、飛び出しているのが分かる。




「……さようなら。甘ったれの宿敵。もう会うこともないでしょう」



何処か遠くから聞こえる、きくぞうさんの、黒い少女の声。



きくぞうさんの鳴き声が聞こえない。


果たしてそれは、幻であったのか、夢であったのか。

知己には分からなかったけれど。



だんだんと遠くなっていく……無機質で感情を押し殺したかのような、らしいセリフに。


大切なものを失ってしまった、とめどない悲しみを。


きくぞうさんの、魂からの慟哭を。



知己は、確かに感じ取っていて……。




            (第416話につづく)






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る