第266話、光に向かうきみに手を振ったら、夢から醒めないままのふたり



カナリにとって幸運だと言えたのは。

そこにいるちくまが紅の作り出した偽者ではなかったことだろう。


だが、そこにいるのはちくまであってちくまではない。

本当のちくまは、今頃どことも知れない夢の世界で世界を救うために知るべきことを享受しているはずだった。


故にこの場にはいない。

できれば見せたくない自身の激情も、知られることはなかった。



「何故……ここへ来た」


ちくまは、ちくまの中にいる守りし一人の少女は、溢れる怒りをぎりぎりの所で押さえてそう呟いた。

もし、自分の使命を知って尚ここにいるというのならば、許せるものではなかった。


あれだけ心痛ませ傷つかせておいて。

これ以上ないくらいに絶望の淵へとおいやって。

まだ、その手を止めない。


彼女は彼女自身でそれが不可能であることくらい重々承知していたけれど。

その細すぎる首をいっそのこと落としてしまえば、なんてことを考えてしまうくらいには。



「だ、だって。戦ってる気配がしたから……」


だが。

黒い瞳に潜む朱に、いっそうの揺らぎが生じる。

それは、ちくまだけでなく、彼女自身ですら見たくないものだった。


恐怖している。

混乱を極め、怯えている。

かつて共通の想いを誓った友である、今はカナリと言う名の少女のその様を見て。

極限まで高まった感情が一瞬にして冷えていくのを自覚する。


結局は、彼女自身にとっても、カナリはかけがえのなかった存在なのだ。

触れ合う機会はそう多くなかったけれど。

ともに誓った戦いに負けようとも祝福できるくらいには。



そう、負けるならばそれはそれで構わなかった。

でも、そうじゃない。

カナリは未だに勝ち逃げを続けている。

いや、彼女の勝つ見込みを奪って戦わないと言った方がいいのかもしれない。


それは、決してカナリが望んだものではないけれど。

自分の方がよほど幸せであることは分かっていたけれど。


ただただ悔しい。

卑怯な行為であるはずなのに。

その先にあるのが悲劇しかないことが。

かけがえのないその人が、目の前にいることが。



「だから?」


きっとこれは、彼女のわがままなのだろう。

ちくまがどうこうじゃない。

彼女自身が、カナリに会いたくなかったのだ。


当たり前のいつものように。

他人のそれにするように。

冷たい言葉が、ちくまの台詞となってついて出る。



「わたしも、その、手伝えることがあったらって思って」


それが良かったのか悪かったのか。

その高圧的とも取れるたった一言で、カナリの今まであったらしくなさが消えた。

瞳に沁みる朱が強く燃えるのがわかる。


それは、自分は間違っていない。

そんなどこまでもまっすぐで純粋な意志を秘めていた。

慇懃なちくまの様子に、むっとしたと言い換えれば、それまでなのかもしれないけれど。



「そんな暇はないはずでしょう。あなたにはやらなければならないことがあるのだから」

「……っ」


ぴしゃりと、おおよそちくまが知らない、知ってはならないだろうことを口にする。

それに、はっとなって改めてちくまを見つめたカナリだったけれど。



「あなた……もしかして、ラヴィズさん? ちくまのファミリアの?」

「……」


今度は彼女が息をのむ番だった。

それは、予想だにしていなかった驚愕。



―――ラヴィズ。

それは彼女に、ちくまが戯れに付けた名前だった。

記憶を封印されてなお、カナリの事は覚えているきらいのあったちくま。


なのに姉であり母でもあった彼女のことは完璧に忘れていて。

嫉妬も含んだ寂しさを彼女が感じる中で。

本来の自分で彼女が存在できぬ事を、ちくま本能で分かっていた上で、窘めるかのようにして付けてくれた名前だった。



この世界においてただ唯一、自分の存在を示すもの。

しかし、有象無象なるファミリアの一片にすぎない、当然のように忘我されがちなものでもあって。

まさかそれを覚えてくれていたなんて思いも寄らなかった。

それは、カナリですらも、その一片にすぎないせいもあったのかもしれないが……。



自分を認識し、とどめていてくれたことが。

姿形どころか、会話すら交わすことのなかった自分に気づいてくれたことが。


始まったばかりだった友の誓いを守ってくれたような気がして。

彼女は……ラヴィズは、涙が出るほど嬉しかった。



「……気づいてたのね」


でも、それはラヴィズには似合わぬもの。

たとえこぼれようとも、それ炎に焼かれ消えゆくのみ。


涙は、目の前の少女にこそ美しく映える。

それは決して甘受してはいけないものだからこそなのだろうけれど。


「う、うん。何でか分からないけどそうかなって思って」


代わりに乗せた、いっそすがすがしいほどの笑みに対し、カナリは頷く。

そしてそこには、なぜそんな事になっているのかと言った、当然な疑問も含まれている。


「なら、話は早い。すぐにあなたは、あなたのすべき事をして」


しかし、それは語れば長くなるのだろう。

今それを一から説明している暇はなかった。


だから、先を促す。

ファミリア同士でなければ知り得ないだろう、そんな言葉で。


「で、でも」


分かっていたことだけど。

当然のように、そのくらいではカナリは折れない。

それには、自分を棚に上げてラヴィズ自身を案じる気持ちももちろんあっただろう。


しかし、言い渋るカナリからは、ちくま本人との邂逅を望んでいるだろう事は容易に想像できた。

何故ならラヴィズ自身がカナリと同じ立場だったら、きっと同じ事を考えただろうからだ。


でも、それこそが。

どうしようもないくらいにちくまを傷つける。

盲目であるからこそ、カナリはそのことに気付けない。

端から見ているからこそ、容易に気づくことができる。


その時初めてラヴィズは、自分がこの世界にいる意味知ったのかもしれない。

わずかな嫉妬羨望をかさにきて。

二人の最後の邂逅を邪魔だてする、救いのない役柄であることを。


そしてそれに、拍車をかけるようにして白煙が晴れて。

殲滅仕切れなかった、あるいは新たにやってきたらしい紅や羅刹紅の姿が目に入る。



「上に逃げなきゃっ!」


おそらくカナリも、キリがないことに気づいたのだろう。

至極もっともで通常ならば頷くべき事を口にするカナリ。


「……ええ、そうね」


否定する理由はない。

頷き、ともに駆け出す。


「刻めっ、焦炎呪縛っ!」


ラヴィズは、牽制の意味を込めて後ろ手に自らがファミリアとして与えられた力を発動した。

苛烈なる光の立てる乾いた音を背に、すぐさま先行していたカナリを追いかけ、そのまま階段へ。


すぐそばで揺れる黒髪。

後ろにいるラヴィズの事など疑う余地もない。

そんな真っ直ぐさが伺える。


……思わず伸ばした手を、ラヴィズが一瞬ためらってしまうくらいには。



            (第267話につづく)






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