第264話、戦いの幕引きは、止めどない愛のかたまりとともに
驚愕の表情を浮かべて自らの血だまりに沈むタクヤ。
その表情は幸永の目論見に気づいているようにも思えて。
こんな状況じゃなかったら、感嘆の口笛を吹いていたかもしれない、なんて益体もない事を考える幸永。
顔を上げれば。
瞳孔が開き、瞳の色を失ったままでくずおれるタクヤを凝視する美里が目に入る。
その身体は小刻みに震えていて。
まるで未来を予知するかのように、幸永はそんな美里に怖気を覚えた。
死にたくない。
一瞬にしてそんな思考が、幸永を支配する。
幸永はその感情を唇もちぎれよとばかりに噛みしめることで堪え、心を研ぎすます。
すると次第に見えてきたのは、幸永だけが目視できる境界線だった。
わずかに緑がかった、強い個を示す極太のライン。
それは、美里自身にすら気づかせぬままに、美里という一人の少女の個を守っている。
幸永はそれを掴み絶つ予行練習をするかのように手のひらを僅かに開いて。
それは、やってきた。
幸永の魂すら圧迫し、押し潰そうとする美里の本域を越えた先にある、怒りのアジール。
たが、それはまだ指向性のないたぎりにすぎない。
幸永は美里から視線を外さず、吹き飛ばされぬように踏ん張って。
「ぅっ!?」
深遠なる憎悪の炎を燃やした黄金の瞳。
ついには幸永を捕らえる。
身体が足が勝手にその場からの離脱を命令していて。
幸永の心は、もはや恐怖で擦り切れぼろぼろだった。
「ああああああぁぁっ!!」
それは悲鳴、あるいは怒号。
そして支配者の歓声。
至近距離でそれを受けた幸永は、一瞬にして全ての音を失う。
その音域に、視界すら霞む。
だがそれは。
幸永にとってみればよかったのかもしれない。
いつの間にか吐息も触れるほど近くに美里がいて。
その必殺の弓がつがえられていたのに。
後ろ向きにならず、両足を広げ踏ん張って。
真正面からそれを受け入れる事ができたのだから。
身体の内側から聞こえるのは、初めて耳にする心打ち抜かれる音だった。
拍子抜けするような、頼りない音。
でも確かにその一撃が致命的な一矢であることを、誰よりも幸永自身が一番自覚していて。
「なっ」
聞こえてきたのは、ただただ驚愕の声。
幸永は顔を上げる。
視界のすぐそばに、美里の顔があった。
一遍の赤に染まりながらも。
美しく理性の炎を宿した、萌芽色の瞳が近い。
何で避けようともしなかったの?
幸永は、揺れる瞳から伝わるものを、そう解釈した。
だから、幸永は微笑み返す。
やっと。
やっと隙を見せてくれたんだねって。
瞳にそんな意味を込めて。
ぐらりと。
美里の方に向かって幸永は倒れる。
無防備に両手を広げて抱きつくかのように……。
※ ※ ※
因果応報。
した事を仕返ししただけ。
だけど美里は、タクヤのそれ以上に、忘我して崩折れる幸永を見ていた。
美里の必死の一撃を、避けるどころか自ら当たりにいったその意味を、理解できないままに。
それは、致命的な油断。
獲物をしとめるその瞬間。
その瞬間こそが最も隙を生む瞬間であることを、美里は忘れていた。
そもそも自分のしてしまったことに、そんなことを考える余裕がなかった。
「アイデント……ブレイクっ」
幸永の力ないかすれ声が、美里の耳に届く。
フレーズもない、基本も何もない。
とっておきのその力を発動する、その声が。
すると。
いつか感じた、潜在的な恐怖を育てる無色透明のアジールが、美里を包んで。
目の前でもはや事切れる寸前の幸永が、何かを掴む。
まるで死に際に生への執着を見せるかのように。
はじめは、何もない虚空を掴んでいるように見えたその手。
たが、美里が瞬きをしたその瞬間。
美里の輪郭をなぞるようにして浮かぶ緑の線が、しっかと幸永の腕に握られているのが見えて。
それは、命を賭した渾身だったのかもしれない。
見た目とは裏腹に容易くちぎれゆく緑の線。
痛みはなかった。
何も感じない。
何も起こらないんじゃないだろうか。
幸永の最期の一撃は届かなかった。
思わず美里はそう思ったけれど。
「あれ? どうしてみさとが、倒れてるの?」
不意に口から出たのは美里自身の疑問符。
怒りも悲しみも何もかも消え去った、純粋な疑問。
違う、そうじゃない。
疑問に思ったのは、その事じゃなかった。
そこに倒れているのは幸永だ。
美里はそんな幸永の一部のはずなのに。
なぜ自分はこうして立っているのか?
浮かんだ疑問は、その事で。
傍目から見れば、不快なほどの違和感だっただろう。
大切な人が殺された事への怒りも。
憎からぬ人を殺めてしまった事の戸惑いも。
今の美里には窺えない。
それは。
幸永の決死の一撃が、確かに決まっていたからだ。
美里にとっての重要なものを確かに壊していたからだ。
そして……。
そうであるが故に。
それを受けた美里は、その事にもう、気づくことができない。
自身が完膚なきまでの敗北を喫したことを理解できなくなっていた。
幸永の最期のとっておき。
―――【過度適合】サード、『アイデント・ブレイク』。
その力を受けた瞬間、美里は美里でなくなった。
幸永と美里。
お互いの個を隔て区別していた自己。
あるいはデターミネイション(存在意義)の根源とも言える境界を壊され、美里は幸永の一部となったのだ。
だが、そんな美里にはそれでもちゃんと個がある。
幸永の一部のものであることを、幸永の美里であることを、自覚している。
それは人を作る細胞にも等しく。
美里は幸永であって、幸永でないものになったのだ。
本来ならこの力は、対象の持つ敵意や殺意を削ぎ落とし仲間意識を持たせ、戦闘不能にさせる、ある意味無害な能力だった。
自然界に生きる幼きものが、その儚さと脆弱さで捕食者の意欲を殺がさせるような、そんな能力だった。
だが、それを幸永の死の間際に受けてしまった美里は。
もう二度と美里には戻ることはできなくなってしまった。
もっとも、その事を認識できない美里にとってみれば。
それはもう、意味のないことなのかもしれない。
幸永となった新しい美里。
新しい、幸永としての記憶と知識が、美里の頭の中を駆け巡る。
幸永になったことで美里は、目の前の幸永の行動の意味をようやく理解することができた。
幸永は、この能力名にふさわしい力を美里にぶつける隙を作るためには、自分が死ぬくらいの覚悟がなければ駄目だと考えていたのだ。
そのためには、我を忘れるくらいに美里を怒らせなければならない。
だから幸永は、タクヤを傷つけたのだ。
その実、密かに致命傷を負わせることもなく。
今の美里にあるのは、事が思惑通りいったという感覚で。
今、そんな満足そうな顔をした幸永が。
美里の矢に貫かれ、その生を終えようとしている。
二度目の死を、迎えようとしている。
悲しいような、そうでないような。
自分を客観的に見ているような、奇妙な感覚。
「何でわざわざ、こんな回りくどいこと、する必要あったんだろう」
その答えを美里はもう、知っている。
幸永の持つその記憶で、もうその答えは示されている。
全ては完なるもの……『パーフェクト・クライム』を欺くために。
救いのない完なるもののための、長く果てない救出劇のための一歩だった。
だがそれは、決して口に出してはならないシークレットコード。
それなのにも関わらず。
美里の口からそんな疑問符がついて出る。
たぶんどうしても。
その答えを、幸永の口から聞きたかったから。
だが。
幸永はもう、答えてはくれない。
その答えは美里の心の中にあると言わんばかりに。
物言わぬ風となって散ってゆく……。
美里はそれを、複雑で表現のしがたい、そんな表情で見送って。
美里は、死の際でとどまっているタクヤとあずさを抱え、歩き出した。
死を持って伝えてくれた、幸永の使命を果たすために。
暗い昏い、闇の底へと、眠りにつくために……。
(第265話につづく)
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