第263話、激情こそが、求めていた罠



―――油断や慢心。


今起こっているこの状況は、そんなものは欠片もなかったとタクヤは自負していたのに。

現在木の属性(フォーム)を中心に構成されているタクヤには分かる。

全身に流れる水という水が、黒き翼を持つ天使に支配されてしまっていることに。


何度も言うが、決して気を抜いていたわけではない。

そもそもそんな余裕を持っていられる相手ではなかった。


そこには、純然たる役者の違いが壁としてわだかまっている。

舞台から見ていたのならば、きっと誰もが思うのだろう。

何故、これほどの力を持つ相手が、奇しくもタクヤから見て敵に位置する役割を与えられているのかと。



「がっ……はっ」


全身の血管という血管。

神経という神経に針を突き刺されてかき回されるかのような、内側から薄皮一枚ずつ剥がされていくかのような激烈な痛み。


タクヤはその痛みに悲鳴を上げたかったが、それすらままならず吐き出されたのは掠れた声だった。


それは、猫の姿にその姿を変えたあずさも同じなのだろう。

聞き取れぬ声を発してのたうち回る様は、ただただ痛々しい。



「タクヤっ! おねえちゃんっ!」


その代わりにと聞こえてきたのは、美里の悲鳴に近い名を呼ぶ声だった。


「ぐっ、ぅっ」


その声に答えようと立ち上がろうとした足が言うことを聞いてくれない。

そのまま右膝から落ちるように転がってしまった。

膝頭から伝染する地響きのような痛みに、笑顔浮かべようとした顔が歪むのが分かって。


せめてタクヤはそれを見せぬようにと腹ばいにくずおれる。

そこに駆け寄ってくる美里の気配。


だが、幸か不幸か、それを止める声が。

タクヤ自身と、あずさの身体の中から響いてきた。



『……おっと、それ以上近づくなよ、先輩』


わずかに緊張感を滲ませた、ひどく芝居がかった声。


「……っ」


それでも美里の足を止めるには十分な威力を発していたらしい。

近づく美里の足音が止まる。


嫌な……最悪な予感が止まらない。

寝てる場合じゃない。

たとえ全ての神経が焼ききれ、その身枯れようとも。

そんな激情がタクヤを支配する。

だが、その瞬間。


「ぐっ!?」

「が、あっ……」


それすら押しつぶす痛みと、全身の気力を吸い出されるような脱力感がタクヤたちを襲った。



「二人をこのまま死なせたくなければ……これ以上は言わなくても分かるよな?」


聞こえるのは、身体の中からではない、すぐ近くで耳朶を打つ幸永の声で。

霞む目で何とか声のする方を見やれば、そこには半分ほどの背丈しかない黒い天使の姿が見える。


どうやら、タクヤたちの身体の中から半分だけ出てきたらしい。

残りはまだ、タクヤたちの中にいるのだろう。

相変わらず身体の行動権は、苛烈な痛みを引き替えに奪われたままで。


その事に、タクヤは一層の戦慄を覚えた。

こんな真似ができるのならば。

目の前の天使は、いつでもこちらを倒すことができたのではないかと。


おそらく、どれだけ虚勢を張っていても、生来戦いに向いていないタイプだったのだろう。


そんな幸永が今それをする訳は何なのか。

発せられたその言葉と、その右手に生まれる氷の刃が、一見全てを表しているかのように思えたけれど。


それ意外の、何か意図があるような気がする。

激流の波に飲まれそうになっている思考を何とか保ちながら……タクヤはその事についてよく考えようとして。



からんっ。

響くのは、随分と軽く響く美里の弓矢が落ちる音で。


止まる思考。

いよいよを持って、嫌な予感が確信へと変わりだす。



「いい勝負だったよ、先輩」


深い諦観を潜ませた、幸永の呟き。

幸永が氷の爪を構えて美里に向かって走り出す足音。


なのに、美里は動かない。

何も言わない。


誰のために?

そう考えたら……堪らない。



「っけ……るなぁぁぁっ!!」


タクヤの心は、一瞬にして身勝手で理不尽な怒りという名の激情に包まれていた。

大切な人の命を引き替えに生き長らえる命など唾棄にも等しい。


一方的なその怒りが、タクヤを激痛の束縛を打ち破る。

水の支配を凌駕する。

際限のない怒りに支配されていたタクヤは、立ち上がることのできたその事実を、自身の気力の賜物であると疑わない。

そのままの勢いで、追い越そうかという勢いで黒の天使を追いかける。


それからの数秒は。

タクヤの人生において最も長く記憶に残るものだっただろう。



始まりの違和感は。

奇跡と呼べる確率で間に合ったことだった。


肉を切り裂き貫く音が、自分の身体の中から聞こえる。

そこまでは問題ない。

タクヤにとって、間に合ったことは最上だったからだ。



「がっ、はっ……」


背中の向こうまで達していた氷の爪。

黒の天使は、無造作にそれを抜き放つ。

傷口から殺到せんとする血液が、たちまち凍り付いて赤い宝石と化す。

それは、タクヤにとって見れば毒にも等しいもの。


だが。

そんな疑問符が、霞むタクヤの思考を駆け巡る。

そしてその答えは……。

感じた違和の正体は。

その瞬間まで動くことすらできなかったはずのタクヤが間に合った理由は。


初めてそこで顔を上げた、幸永のその表情に描かれる。

してやったりの笑顔。

タクヤに対する、罪悪感。

命を張ってまで守ってもらえる人がいることへの憧憬。


そして……。

これから自分に訪れるだろう死への恐怖。

幸永の目論見の全てを知ったのはその瞬間で。


「ど……うっ……」


だけどそれはもはや手遅れだった。

どうして!?

その言葉は、幸永には届かない。


幸永からの返事はなく。

最後にタクヤが聞いたのは、自分自身が倒れ伏す、そんな音で……。



             (第264話につづく)






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