第253話、冷たい雨が、はがれた夜の心打つ
気づけば、まゆの目の前には。
都合三度目の、先程までとは違う景色が広がっていた。
(ここは、『赤い月』の……?)
恐らくその地下室、なのだろう。
はるさんと同じく教師をしていたこうちゃんが使っていた研究室。
この信更安庭学園で最も強力な竜脈の通る場所。
そこには、惨劇の跡が残っていた。
塗料がはがれ乱れた、妖しげな魔法陣。
散らばる白い羽。
大地へと染み落ちて乾いてもこびりついて離れない赤い斑。
「……」
言葉は出なかった。
慟哭も、怒りも、なにもかも。
はるさん……母の使命を考えるならば。
ここで泣くことは彼女への侮辱になる。
その使命を知っていれば、父、こうちゃんのことを一方的に断罪することはできそうもなかった。
目の前の出来事を考えると。
損をして傷ついたのはやっぱりこうちゃんのほうだったのかもしれない。
妹、恵のためにその命を使う。
はるさんがそれをするためには、背中の完なるもののかけらが邪魔だった。
それを取り除くためには、こうちゃんの力が必要で。
だけど、普通にお願いした所ででこうちゃんがその願いを聞いてくれないのは分かりきっていた。
それはそうだろう。
妻が死にゆこうとするのを黙って見ている夫がどこにいるものか。
だが、妻は普通の妻ではなかった。
自分の我が儘=犠牲になることを叶えるためにはなんだってやる、自己中な天使だったのだ。
人と天使の恋は報われない。
まゆや恵がいてそんなわけないだろうと、嘘だとまゆは思っていたけれど。
目の前の今を見れば、それはある意味正しかったのかもしれない。
でも、それでも。
大げさで大仰なこうちゃんを見てると、まゆは思わずにはいられないのだ。
目の前の全てがブラフで。
全てを分かった上でこうちゃんの今があるのではないかと。
……と。
突然の剣戟の音が降ってくる。
ふと血だまりと羽から顔を上げれば、まゆの頬をすっと通過する黒い雨。
剣戟を囲むような赤い喧噪。
紅の拍手を送られて。
黒い雨に打たれて戦うのは、二人の少年だった。
まるで、場面が急に転瞬したかのような突然の出現。
……いや、そうではない。
まゆは気づいていたのに、認識している余裕がなかっただけなのだろう。
ようは、強がっていてもそれだけ地面に広がる光景に衝撃を受けていたからなのだろうが。
「あれは……何で戦ってると?」
目の前で展開されるその光景は、また別の意味で僕を驚愕させる。
戦っているのは、須坂兄弟だった。
この、信更安庭学園にやってきている、AKASHA班(チーム)の残りの二人。
怒りにも近い厳しい表情で赤く湾曲した刀を構えているのは兄の勇。
場にそぐわない楽しげな笑みで青い直刃の剣をだらりとぶらさげているのは弟の哲だった。
もう、随分と長い間それを続けているのか、お互い血にまみれている。
二人のその暗い熱気が、雨に打たれて立ち昇り白い煙を上げていて。
同じチームの仲間であるはずなのに。
それ以前に血を分けた兄弟であるはずなのに。
戦い、魂削らんとしている様が理解できなかった。
それはもちろん、どちらかが偽物……柳一さんの能力に因る存在だと分かった上でもだ。
不本意というか、あまり口にはしたくはないけれど。
それが男の兄弟の不思議なのかもしれない。
まゆであったら、多分逃げることしかできないだろう。
恵に剣を向けるとか向けられるとか想像するだけでナシな感じであったから。
そんな、二人が聞いていたら怒り出すかもしれないだろうことを考えている間にも二人の戦いは続いていた。
煙り立ち昇る雨の中、剣戟は止まない。
ただ、二人のぶつかり合いは……まるで完なるもののように内々なものらしかった。
きっと、二人してお互いしか見ていなかったのだろう。
周りを囲っていたギャラリー……紅達は、二人のとばっちりを受けて次々と雨の霞と溶け消えていた。
いや、もしかしたらギャラリーだと思ってたのはまゆだけで、彼らもその戦いに参加していたのかもしれないが。
気づけば。
雨の中には二人しかいなかった。
何という無双。
いや、二人いるわけだからその表現は正しくないのだろう。
終わる気配のない、二人だけの戦い。
一人観戦していたまゆは、本当にそう思っていた。
この戦いは、ずっとずっと続くのだと。
……怒濤に迫ってくる、目の前に広がる光景。
その違和感に気づくまでは。
初めはジャブ。
倒れ伏したはずの紅たちは一体どこに消えてしまったのだろうか?
次はフック。
二人に降り注ぐ、黒い雨は何なのか?
そして……止めのストレート。
二人の肌に触れる雨、上がる白煙。
初めは単純に。
二人の熱気だと思っていたが。
この世界が何であるかをまゆが思いだした時。
止まっていた針が動き出したかのように事態は激変した。
じゅっと。
黒い雨で……哲の頬が溶ける。
それは、拮抗した長い戦いの代償だったんだろう。
二人の名誉のために言わせてもらえば、今の今まで身体溶かす酸をその猛きアジールで防いでいたのに違いない。
たが、ここにきてようやく本物とそうでないものの差が出たらしい。
哲の溶けた肌の向こうに見えるのは、ただ一色の紅。
もちろんそれは、人の肌の向こうにあるものではなく。
「……【赤月衛主】セカンド、フォースジョブっ!」
「っ!?」
目の前にいる哲は、紅の化けた偽物。
それに、勇も気付いたのだろう。
やっぱり、目の前にいるのは弟かもしれない。
そう思っているうちは、本気を出せなかったのだ。
今までとは明らかに違う、勇の本域。
勝負は……その瞬間、決まっていた。
「何だ、結構早かったな……」
勇の地を這うような一撃、哲の青白い刀をかちあげる。
「もう、気づいたみたいだね、僕が偽物だって」
二撃目、すくい上げるような追い打ち。
哲の刀に、びしりと罅が入って。
「でもね、そんなことは関係ないんだよ。僕が本物か偽物かなんて」
三撃目。
一旦離れ、トリッキーな横薙ぎの一撃。
哲の剣はその手から離れ、吹き飛んで雨に沈んでゆく。
だが、哲は笑っていた。
絶体絶命のその瞬間でも、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
嫌な予感。
初めに思った通りに。
兄弟で戦うことなんてするべきじゃなかったのだと。
止めたかったけど、止められない。
まゆは相変わらず、ただ見ているだけで。
「兄さんが、偽物の僕を殺し、偽物の塁を殺したその事実には何の偽りもないんだから」
四撃目。
天の構えからの一撃。
止めることのできない一撃。
勇の能力の真骨頂。
まゆには、その太刀筋は全く見えなかった。
ただ、赤いかけらが雨粒よりも小さくなって、あたりに飛び散っただけだった。
そこにはもう、哲の姿はない。
ただ呆然と雨に打たれる勇だけがいる。
「……ほら、見てるよ。そんな兄さんを。もう一人の偽物の僕が」
それなのに。
どこからともなく、そんな恍惚めいた哲の呟きが聞こえて。
「ち、ちがうっ! ちがうんだこれはっ……!」
「……っ!」
後ろめたさに歪む勇の顔がまゆの方に向いた。
いや、そうじゃない。
今、息をのんだ誰かは、まゆの後ろにいたのだ。
振り向いてみたが跳ねる雨に紛れてそれが誰かは分からない。
「あ……」
どしゃっ……。
それは守の心が折れた、そんな音にまゆには聞こえて。
崩れ折れ呆然と膝をつき、両手の平を地面につける勇。
それはまるで、何かに懺悔をしてるみたいで……。
そんな姿も。
やがて雨に紛れて、うねる大地に飲み込まれて見えなくなる。
煙る雨だけの静寂。
そこに、まゆだけがただ一人、残されて……。
(第254話につづく)
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