第236話、捩れ捻じれたゴム紐は、だんだんときつく厳しくなっていく



「ギャウウウウッ!」

「にょわぁっ!?」


普通の犬ではあり得ない威嚇の声。

まゆは今まで考えていたことそっちのけで背中向けて逃げ出す。

しかし、あっと言う間に背中に迫る生暖かい気配。


「くしょ、足遅いっ、身体軽っ!」


元々天使が走るようにできていないのか、それともまゆの羽使いが下手なのか。

足動かすたびに背中の大仰な翼も羽ばたくせいで、ただでさえ軽い体がふわふわと浮き上がる。



「のはっ!?」


背後からのプレッシャーと、慣れない逃走劇のよる結果は……

何もないところでつまずくといった最低なものだった。

ごろごろと転がり、今まさにいただきますといった感じのお化けツカサと目が合う。



「……っ」


瑞々しく抱きしめたくなるほどのつぶらな瞳はもうそこにはなかった。

死んでしまってなお止まることを許されない、そんな濁った目。

その理解が、悲しみと怒りを生み出す。



「【秘枢拍来】っ!」


なんとかなるとも、どうにかできるとも思ったわけじゃない。

気づけばまゆはふたつの白い輪をがちりと打ち鳴らしていた。


先程使った【隠家範中】と対をなす【秘枢拍来】は、何かを吐き出す……あるいは生み出す力だった。


何が出てくるのかは、まゆ自身には分からない。

まゆが知らないもの、見たことがないものでなければ、そこにはいい意味でも悪い意味でも無限の可能性が広がっている。


正直なところあまり使いたくはない力だったが。

次の瞬間白い輪から生み出されたのは、赤白の螺旋描く光だった。



「ギャインッ!」

「おぅふっ!?」


反動で吹っ飛ばされるまゆとお化けツカサの前で光が弾ける。

至近距離の炸裂音につんとする耳。

産毛がチリチリする熱波。


恐らくそれはそれなりの大きさの打ち上げ花火だったのだろう。

攻撃の魔法でもなんでもなかったが、それは奇跡的に当たりだったらしい。


きっと人より何倍も聞こえるんだろう耳をやられたらしく、飛びすさり悶えるお化けツカサ。

それはほんもののツカサをいじめてるみたいでいやな光景だったが。


すぐにお互いの視界を白煙が覆う。

鼻をくすぐるのは、それほど昔でもないのにひどく懐かしい煙のにおい。


チャンスだった。

まゆは今のうちとばかりに逃げを打つ。

向かう場所は決まっていた。


ホールにあつらえてあるバックヤード。

勝手知ったる自分の家とばかりに、塞がれて視界に乗じてそこへ逃げ込む。

控え室や更衣室、さらには音響室。

本場を意識し、趣向凝らした古めかしいつくり。

その狭い通路を軽快とは言えない足取りで駆ける。



バックヤードには裏口……いや、鳥海家第一玄関口があった。

今はその先がどうなっているのか見当もつかなかったが。

どこかに隠れ、来るかも分からない鬼に震えているよりはよっぽどいいだろう。

まゆは、そんなことを考えていたわけだが。



「……っ」


ふとまゆの足は、医務室と木造のプレートの掲げられた部屋の前で止まった。

部屋の中にあるのは、忘れたくても忘れられない闇の気配がある。


それは、『パーフェクト・クライム』のものだった。


かつて、まゆの背にあったもの。

翼を闇よりもなお暗い黒色に染めたもの。

気づけばまゆは追われている状況すら忘れてその扉を開け放っていた。


すると、医務室に備え付けられているものとは思えない豪奢な天蓋つきのベッドの上に、ひとりの少女が眠っているのが分かった。

滑らかな薄茶の髪に紛れて……生まれつきあるものではなく、植え付けられた闇の翼をその肩口に浮かばせて。



「もしかしてこの子が怜亜ちゃんなのかな?」


天使の友達から聞かされていた名前を思い出し、まゆは呟く。

彼女に会うことは、まゆがここに来た目的の一つでもある。


重い使命を負った少女。

はるさんが娘みたいに可愛がっていた少女。

だとすれば彼女はまゆの姉妹も同然で。

出来る限りの力になってあげたい。

まゆがそう思った時。



入り口の扉が無惨な音立てて噛みちぎられる。

はっとなって振り向けば、そこには全く無傷なお化けツカサの姿があった。


あの花火みたいな力は全くもって役に立たなかったらしい。

あるとすれば、よりお化けツカサを怒らせてしまったことだろう。



「なんばしょっとね……」


逃げられるとは思ってなかったけれど。

迂闊な自分に呆れる。

同時に、逃げられない状況を無意識のままに自分で作ってしまったことにも呆れて。


手のひらに生まれるはの黒の輪。

フラフープほどに広げると、虹色の渦が輪の中に満ちる。


「こ、こうなったらゲットしちゃる」


元を返せばそのための能力だ。

隠れ家の主である自分と対象を異世に隔離するもの。

一緒に入ることでまゆのマイ異世はきっと滅茶苦茶になるだろうけど背に腹は代えられない。

その家主は迷惑どころの話じゃ済まされない目に遭うだろうが。

そんな覚悟が全くできてないところが悩みどころで……。



「【隠家範中】っ!」


まゆは未だに慣れない叫びとともにフープを振り上げる。

対するお化けツカサは歩み寄りの余地がなさそうな雰囲気で牙をむいていて。


とんと、手応えのないフープが絨毯をたたく音。

そこにいるはずのお化けツカサの姿がない。


ぞくりと嫌な予感が全身を撫で回す。

はっと目線を上にやれば、天井にぶつかる勢いで跳躍しているお化けツカサの姿があった。



「つうっ……」


頬が熱い。

ツカサの爪が視界のすぐ脇にある。

フープというつっかえで、かろうじてマウンドポジションを免れた状態。


だが、それはもう王手直前のようなものだった。

輪は攻撃をそつなく受けられるほど強くない。

というより、一度でも受け止められたのは奇跡に近かった。


なんてまゆが思うより早く、みしりとあまりよろしくない音が耳に届く。

『パーフェクト・クライム』のそれと違って仰向けに寝られるようにできてない翼が、擦れて痛かった。



「……レベル高いとね、まったく」


黒の輪の吸い込む力をものともせずに躱されるなんて。

考えもしなかった時点で勝敗は決まっていたのだろう。


あまりのあっけなさにぐうの音もでない。

なんというか、こうちゃんに啖呵切った自身が恥ずかしく思えて。


自分の弱さへの理解と、成そうとしていたことの暴挙さ。

それを知ることができただけ、マシなのかもしれなかったが……。



それはあくまでも、次がある場合だ。

この期に及んでツカサがその牙や爪を止めるはずがない。

だとすれば当然、食われる寸前のまゆに次などないはずで。


それなのにも関わらず。

まゆがこんな益体もないモノローグを披露できるくらいに落ち着いていたのは。



「―――【魔性楽器】ファーストっ、ゴリィベースっ!」



凛と響きわたる少女の力ある声を、はなから期待していたからなんだろう。


最初から助けを請うためにここに駆け込んだ。

不確定な裏口から逃げるよりも助かる確率が高いと判断して。

……そんなえげつない自分に泣けてくるまゆである。



結果、少女が持つギターから放たれた血塗れを意味する音の衝撃波は。

容赦なくお化けツカサに襲いかかった。

そして、今の今まで死にものぐるいで逃げ回ってたまゆをあざ笑うかのように、あっさりと決着がつく。


これが覆せないスペックの差というものなのだろう。

音波の直撃を受け、その身を削り取られながら部屋の外まで弾き飛ばされるお化けツカサ。


視界の届かない場所でなお音の暴力はその手を緩めず、

軋んだ音を立てながら、反対側の壁すらも掘削していく様がありありと目に浮かんだ。



一方的な音の蹂躙はそれからしばらく続いて。

残されたのは恐ろしいほどの静寂。


お化けツカサが戻ってくる気配はなく。

お化けツカサがどんな結末を迎えたのか、想像に難くなかったが。

むりくりねじ曲げられた生から解放されたと考えれば、これでよかったのかもしれない。

ただ、その業をまゆ自身でなしえなかったことが悔やまれるが……。




「ママ……」


と、そんなことを考えていると聞こえてきたのはそんな呼び声だった。

その声に起き上がり、ひかれるようにして振り返ると、少女の身体はいつの間にか回避できないくらい近くにあって。

そのままぎゅう、と抱きしめられる。



「ち、ちょっ!?」


驚くくらい華奢で壊れそうなくらい軽く柔な感触。

最初は役得……じゃなく、何がなんだか分からずに、ただ狼狽えるしかないまゆだったけれど。


その身体が震えていて。

首越しに嗚咽が届いてきて。


まゆは理解した。

やはり彼女が、まゆの探していた怜亜という名の少女なのだと。



その時のまゆにできたことは。


黙って受け入れること。


ただそれだけで……。



             (第237話につづく)






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