第231話、見る夢が幻であっても、願う夢に嘘はつけない



仁子が黒のアーチをくぐって丸い鉄扉の向こうへと足を踏み入れてすぐ。

今までの地下組織のごときロケーションは一変していた。



(夢って、こういうこと?)


そこは砂浜だった。

タイミングを見計らったかのような夕焼けが黄土色の砂を、間断なく波作る海面を照らしている。


仁子の記憶に馴染みのある、見慣れた場所。

必ずしも、それはいい記憶とは限らないけれど。

時々夢に見る場所であることは事実で。

この夢の情景が、一体どんな形で牙をむくと言うのか、仁子には見当もつかなかった。



「きっと異世か何かなんだろうけど……」


よくできていると感心しながら、仁子は見えない下へ降る階段……あるいはこの異世を維持しているものを探して辺りを見回す。



「とりあえず海の家かな」


夕焼けを背にし、歩き出した方向に見えるのは、海の家にヤドカリの貝のように寄生している青い屋根のペンション。

これが仁子の夢だというのならそこへ向かえば何かしら起こるかもしれない。

仁子はそう考えそこへ向かって歩き出す。


するとその瞬間。


ペンションの中だろうか。

アジールを展開するという表現すら生温いだろう、闇の気配が暴発する感覚が仁子を襲った。


「これはっ」


紛い物とは言え、一度その身に受けた仁子はそれが何であるのかすぐに察知し、戦慄する。

それは紛れもなく、『パーフェクト・クライム』の気配だった。

その凶悪なほどの気配に、仁子は一瞬歩み進めることを躊躇う。


でもそれは一瞬で、すぐに駆け出した。

いずれあいまみえる時がきた時に萎縮していては話にならないといった意地もあったが。

結局の所それも紛い物であると気づいたからだ。


だが、仁子がもはや地震のように震えはじめているペンションの入り口へと辿り着いたその時。

唐突に、あるいはタイミングを見計らったかのようにペンションの扉が開け放たれる。



「ぁ……」


現れたのは知己だった。

びしりと全身にひびが入るような音がした気がして、仁子は動けない。

それは、赤いダルルロボ……法久の偽物に会ったときに仁子が考えてしまった最悪の想像。

今更ながらそんなことを考えてしまった自分にひどく後悔した仁子だったけれど。

その時仁子と目があった知己がとった行動は、予想の範疇を越えたものだった。



「よ、よっし~! た、助けてくれぇっ!!」

「えっ?」


恐怖にかられた情けない知己の声。

ただ戸惑う仁子の背にしがみつくように隠れる。

それは、一見知己が榛原会長に襲われかけた時にふざけてするような行動にも見えたが。

その知己は本気で怯え、本気で仁子に縋っているようだった。


そんな知己は知己にあり得ない。

仁子は焦り萎縮していた自分がすっかり冷静になっていることを自覚しつつも、それと同時に呆れてもいた。


まるで幼子のように怯える知己。

これが自分の夢だというのなら。

自分の求めていた知己はこんな知己だったのかと。



(そんなわけないじゃない……)


仁子はそんな考えを打ち払うように首を振り、そんな知己から離れる。

途端、泣きそうな顔をする知己。

見たことのないその顔をよりにもよってこんなことで見せられて、ひどくしゃくにさわった。



「……何があったの?」


だと言うのに、そんな顔を見ていたら無意識に出てしまったそんな言葉に仁子は頭を抱えたくなる。


「化け物が、化け物が現れたんだっ!」

「化け物? いくら会長が変態だからってその言い方は……」

「違うよっ! ほんとの化け物なんだっ! 真っ黒の翼にと大きな牙と爪を持ったやつだよ!」


こんなやりとりだけで、仁子は目の前の知己は知己の形をしているだけで別物なのだと実感する仁子。

本物の知己なら、こんな緊迫している場面でも冗談にに乗るだろう。

そんなことで分かってしまう自分が情けないやらなんやらだったけれど。


「そうだよ、よっしー! 家のみんなを助けてくれっ! 早くしないとみんなが食われちまう!」


次に発せられた知己の言葉に、すっと仁子の目が細まった。


「早くしてくれ? まさか知己さん、みんなをおいて逃げてきたの?」

「何だよ、そんな他人行儀な呼びかたしてっ! そ、そんなのしょうがないだろっ! 己には仁子みたいな力はないんだから!」

「……最低。こんなものは夢でもなんでもないわ」


わめく知己の形をしたものを尻目に、仁子はそう呟いて駆け出す。


強く尊敬すべき兄が、あの規格外な力を持っていない普通の人間、あるいは凡百な能力者だったのなら。

仁子確かに、そんな事を考えたこともあった。

そんな兄が危機に陥っているのならば、仁子は当然助けただろう。


でもきっと、あの風変わりで自分勝手な兄は、力なくとも自分だけ逃げ出すような真似はしないだろうと仁子には確信があった。

自分勝手にまっすぐな無茶をして、自分を困らせるのだと。



仁子は、警戒を解くことなく見慣れた大きめのリビングを見渡す。

思っていたよりも、そこは静寂に満ちていた。


泣いている子供どころか、人の気配さえしない。

ただ、天井のその向こうに、嫌気のさすような闇の気配がわだかまっている。

どうやらくだんの化け物は上の階にいるらしい。

迷うことなく、二階へと続く階段へと足を踏み出して。



「くっ……」


ペンションをびりびりと振動させる獣の咆哮がこだまする。

そこにあるのは、悲しみと苦しみ。

そして懐愁。

先程知己を目にしたときとは比べものにならないくらいの嫌な予感を覚え、仁子の表情が苦渋に染まる。

でもそれでも、仁子の足は急かすように勝手に動いた。



そうして……。

辿り着いたのはこのペンションの売りでもある屋上に据えられたビアガーデン。

ちょっとした高さで夕日が沈む様を見られる、とっておきのその場所。

まさに今日が沈まんとする絶好のロケーションを絶望に変える存在がそこにいた。


忍び寄る闇と同化して広がっていくような黒の翼。

針金のように鋭くとがった紺色の毛並み。

四肢は百獣の王をも稚児に等しいと思えるほどにたくましく荒々しい。


両手両足にはぬらぬらと黒光りする死神の鎌のごとき曲線を描く爪。

むき出しの歯茎からは、その窯のような顎に入りきらないほどに長い牙がある。


「これが……『パーフェクト・クライム』?」


そこにいるだけで感じる組みしがたい存在感に、仁子は圧倒される。

だが、その一方でどこか冷静に目の前にうずくまるものが、自身が想像した『パーフェクト・クライム』にすぎないことを仁子は理解していた。


……と。

そんな想像の『パーフェクト・クライム』の瞳が仁子を捕らえた。

かち合う二つの視線。


「あ……」


どこからか空気が漏れるかのような仁子の声。

その視線から逃れるようにして仁子は一歩、二歩と下がる。


怖かったから、というのは紛れもない事実なのだろう。

だがそれは、目の前にいるものに対してではない。


気づいてしまったのだ。

たった今、自分の夢というものがなんなのかを。


どんなに醜くとも、隠そうとしても自分に嘘はつけない。

否定はできない。

それは紛れもなく……仁子の夢のひとつだった。

たとえそれが、夢という言葉を穢しているのだとしても。


そこで目の前のそれが仁子に襲いかかってきてくれたのなら。

まだ救いはあったのかもしれない。


慄き下がる仁子を『パーフェクト・クライム』はただじっと見つめている。

化生となってしまったからなのか、その瞳の中の真意は見えない。


いや、見ようとしていないのは仁子のほうだったのだろう。

その瞳に悲しみと諦めの色があるのかと思うと、仁子はどうしてもその瞳を直視できなかった。



そのどうにもできない気まずさのような膠着が、一体どれくらい続いただろうか。

それまで浅い呼気を繰り返しながら仁子を見つめていた「パーフェクト・クライム』の視線が大きく逸れる。

視線は下方、砂浜の方に向いているようだった。

仁子もつられるようにしてそちらに視線を向けて。



「あっ!」


はっと声を上げる。

ペンションから少し離れた砂浜の中程に立っていたのは、知己だった。

落ち着きなくこちらを見つめている。


と、その時。

ばさりと風起こり翼舞う音がした。


『パーフェクト・クライム』が羽ばたいている。

今まさに空を飛び行くために。

どこへ向かおうとしているのかなんて一目瞭然だった。

知己の所に決まっている。


『パーフェクト・クライム』は、もう仁子など眼中にないようだった。


初めからそこには何もいなかったかのような、盲目さで。


無防備にその背を向けて一直線に飛び立っていって……。



            (第232話につづく)












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