第222話、みゃんぴょうは、蒙昧なる巨人を駆け上がる


それから、どれくらいの時がたったのかは分からない。

ただ一つ、美冬にはっきりと突きつけられたのは、慎之介がいないという現実だけだった。


「しんちゃん……。」


美冬は、陰鬱な気持ちになりながらも、慎之介を探すためにと辺りを見回す。

そこは、長い長いトンネル……あるいは、蒲鉾型の天井が続くどこかの廊下のようだった。


足つく地面は赤いリノリウム。

天井は土壁みたいに黄土色の凹凸があって、さっきは目に見えた赤茶けたカンテラが、綿密に計算された配置間隔で壁に並ぶように飾られている。

美冬が落ちてきたはずの穴はどこにも見あたらなかった。

前後に鏡写しのように、ずっとずっと道が続いているだけ。


選択肢は二つ、前に行くか後ろに行くか。

まぁ、どっちが前か後ろかは分からないわけだが。

美冬は前だと決めた道へと歩いていく。

その方が何だか気分的にいいかも、なんて単純な理由だったが。


「……っ」


幾ばくもいかないうちに、前方からわずかな振動……地響きにもにた音が聞こえてきた。

前に進むことを選んで正しかったのか間違っていたのか、判断に困る所で。


「……ま、やばそうだったら後ろに逃げればいっか」


それでも美冬は元々選択肢が限られていることを思い出し、勇気と好奇心を持ってそのままさらに歩みを早める。

すると、どんどんとその地響きは大きくなって……かと思ったら、唐突にやんだ。

何が何だか分からない美冬はそれでも足を止めずに歩き続けて。


「……出口?」


ほんのかすかに、光が見える。

それは、トンネルの出口のようにも見えたけれど。


今さっきのこともある。

美冬は同じ轍を踏まないようなと心に決めながらその光の先へと向かう。


「……テラスかな? なんか形が変だけど」


辿り着いたその先は行き止まりだった。

楕円にくりぬかれた、だけど『赤い月』の玄関ホールだったとこよりも随分と広い袋小路。

それは結構高いところにあるのか、窓の向こうに見えるのは陽光照り返す青い海と青空だけ。


「塔のてっぺんにでもきちゃったのかなぁ?」


ごろごろと落ちてきたのだからそんなことはないはずなんだけどな、

なんて思いつつも美冬いっぱいに日の光を浴び続けている窓の一つに近づく。


思い立った理由は単純だった。

その向こうに見える景色を見たいって、そう思っただけだったのだが。



「……え、なんで? どこここ?」


百メートル……いや、もっとあるかもしれない。

いつか慎之介と行った喜望ビルなんか比じゃないくらい遙か下に、緑混じった稜線なんかもはっきりと分かる、そんな大地が見える。

それだけならここは異世であるし、それほど驚く事じゃなかったのだが。


「……嘘っ!?」


不意に起こった地響き。

間断なく続くそれに美冬は乗り出すようにして手すりに捕まって。

ついには、見てしまった。


「……動いてる?」


いや、正確には歩いている、だろう。

遙か下に見える地面。

それをゆっくりと踏みしめて進む、巨大な足。

おそらく煉瓦か何かでできたそれは、美冬が今いる場所まで繋がっているのだろう。


戦隊モノに出てくる合体ロボ。

ふと浮かんできたのはそんなフレーズで。

美冬は、自分で思っていた以上に巨大な厄介ごとに巻き込まれてしまったらしい。


「あれが足だとすると、ここはどこなのかな?」


しかし、美冬はその規格外な事態を理解してもあまりうろたえなかった。

美冬自身が規格から外れたイレギュラーな存在だって事もあるだろうけれど。

まるで子供の夢を体現したかのようなこの異世に、ちょっとだけ微笑ましいものを感じてしまったからだ。


ただ、これほどの規模となれば子供の純心ですまされないのは確かなのだろう。

美冬たちにとってみればその純心は残酷なものでしかないのかもしれない。



「とにかく、しんちゃんを探さなきゃ」


ここがどんなに突拍子もない場所だろうとも。

美冬にとっての最優先事項は揺らぐことはなかった。

恐らく、ガラス窓を開けるなり壊すなりすれば外に出られるのかもしれないが。

別に外に出るのが目的じゃないから、そのまま方向転換をする。


「いざゆかん、しんちゃんのもとへ!」


それからすぐに……先の見えない細いトンネルを相手に気合いを入れ直し、走りだして。

最初に落ちたあたりを軽快に通り過ぎてしばらく。

不意に誰かの……確かにそれは慎之介の声だった……が何処からか聞こえてきて。

美冬は、慌ててブレーキをかけた。


慌てて振り返るけど誰もいない。

どうやらその声は、カンテラのかかってる壁の向こうから聞こえてくるようで。

前と後ろにしか進めないと思っていたけれど、以外とそうでもないらしい。

美冬は慎重に歩みを進めつつ、慎之介の声が一番よく聞こえるところまで戻って。



「つまりは、解毒の術はない。そう言うことっすか」

「……」


はっきり耳に入ってきたのは、何だか不安を煽る、まじめな慎之介の声。

思わず声をかけるのに躊躇う。

と、そこに思いも寄らぬ私の知らない第三者……冷たく無感情な声色が重なった。


「毒ではなく、血の呪い…………の能力の模倣でしょうが……未だかつて、それを受けて生きながらえたものはいません」


いまいち聞き取りづらかったが。

それは女の人の声だった。

普通なら浮気は死刑だかんね! なんて特攻をかけるところなのに。

その深刻で不穏な内容に体が動かない。

ただ、聴力だけが過敏に研ぎすまされていて。


「おれには後どれだけの時間が残されてるんすかね?」


不意に聞こえてきた、慎之介の場違いなほどに明るい声が美冬を凍り付かせる。


「……分かりません。医者としては失格なのでしょうが、今あなたがこうして立っているのにも驚きを隠せないのですから」


そして、そこにとどめを刺すように、冷たい声が響いて。


「うそ……」


美冬は、よろよろと後じさった。

二人の言っている言葉が信じられない。

ここは何が起きてもおかしくない異世だから……

慎之介の声真似をした敵が美冬のことを騙そうとしてるんだって、そう思った。

なのに、美冬の脳は勝手にそれを理解しようとフル回転をはじめる。


毒、呪い……それも、立っているのもやっとの。


この信更安庭に来てからは慎之介の側を離れたことはほとんどなかった。

一体いつ、慎之介がそんな目に遭わなきゃいけないことがあったのか。

目まぐるしく、ここに来てからの記憶がフラッシュバックする。


初めに思い出したのは、慎之介が愛華から手紙を受け取った時の、愛華の不可解なリアクション。

あの時愛華は、慎之介の何に気づいた?

何を美冬に悟らせないように、その場を誤魔化したんだろう?


さらに巡る記憶。

思い出せば思い出すほど、壁越しの会話に信憑性が帯びてくる。

そんな事思い出したくないのに、思考の回転は止まらない。

まるで逃げたくても逃げられない……籠の中の輪を走っているみたいに。


そして……。

美冬の思考は、その決定的瞬間へと辿り着く。


それは、慎之介と慎之介の偽物との戦いのワンシーン。

やっつけたと思った偽物。

苦し紛れにも見えた、最期の攻撃。

他愛もないものに見えたそれ。

美冬を庇う慎之介。

腕にできた、切り傷。

慎之介は、たいしたことないって、ただ笑っていて……。


「怒られるなぁ、美冬さんに。こんなことなら、美冬さんの言うことを聞いておけばよかったっすよ……」


離れても届いてくる、慎之介の悔恨。


「……あぁ」


びしりと、そんな音が聞こえた気がした。

それは、比喩でなく美冬にひびが入る音、だったのだろう。

同じ命を共有するのに等しい、美冬と慎之介。

それは、慎之介に緩慢なる死が迫っている、確かな証拠でもあって。


「……信じないよ。絶対信じないもんっ!」


気づけば美冬はそう叫んでいた。

今の今まで気づけなかった自分への不甲斐なさと。

その事をずっと隠していた慎之介への怒りと悲しみ。


……逃れられない絶望。

だけど認めたくなかったから。

認めちゃいけないって思ったから。

美冬は駆け出す。


それが、現実から目を背けているのだとしても。

逃げているだけなのだとしても。

美冬は止まることができなかった。

その先に、またしても奈落がその口を開けて待っていることに気づきもせずに。


「あっ!」


美冬は、一度ならず二度までも。

足場を失い、無様に転んで。

為す術もなく堕ちてゆく。

逃れられない絶望の闇に、包まれるようにして……。





            ※      ※      ※




―――時は、僅かに遡る。



透影・ジョイスタシァ・正咲が。

自分を忘却して、ただのジョイだった頃の思い出の場所、信更安庭学園。


「……ちょっと、寄りたいところがあるとね」


そこへ辿り着いてすぐ。

賢には賢の使命があるはずなのに。

何故かついてきた母袋賢が、唐突にそんな事を言い出した。


「え? あ、うん。それじゃジョイは先に恵ちゃんちに行ってるね」


賢がちょっと寄りたいところ。

正咲はすぐにピンときた。

恵のお母さん……賢にとっては伯母さんになる、鳥海春恵の仕事場……学園長室に向かうんだってことを。


「ああ、感謝するとね」


賢は、正咲が気をつかってついていかないことを見透かしたみたいに柔らかく微笑んで。

そんな言葉を残して去っていく。


「何が感謝するとねーなのさ。……ジョイは何もしてないもん」


そんな呟きは賢には届かなかっただろうが。

正咲は、むずむずする頬を叩きながら言葉通り、天使のいると言う噂のお屋敷、恵の家へと向かった。


「あ、でもお屋敷の中には入れないんだった……」


お屋敷の入り口にはおっかないお姉さんたちが門番してて近づけなかったし、屋敷のまわりには近くにくるだけで産毛がチリチリする異世の壁があってもっとおっかなかった。

それでも、時の扉の秘密が隠されているのはお屋敷の中だって正咲は睨んでいた。

そんなわけだから、せっかく賢がついてきてくれたのだし、恵の従兄な賢の力を借りて何とかお屋敷の中に入れてもらえないかと考えていたわけだが。


「どうしよっかな。賢ちゃん戻ってくるまで待ってよっかな……」


それとも、先に勇たちにでも会いに行くか。

正咲はちょっとだけ考えて、まずはお屋敷の様子を見るだけ見てみようと決めて再び歩き出す。


すると、いきなりそれは起こった。

正咲の目の前で。


初めは地震かな、くらいのものだったのだが。

それがだんだん激しくなって、一向に収まらなくて。

その時に思い出したのは、うねる地面から突然現れて正咲を襲った赤い異形のことで。

あの時みたいに地面の下に何かいるのかもしれない。

そう思って、足下に警戒したその瞬間。



まるで終末が始まったかのような大地の慟哭。


「わ、わ、わぁっ!?」


警戒なんてまるで無意味な、激しい揺れ。

あの時とは比較にならない大波……うねって盛り上がる地面が正咲の方に近づいてくる。


正咲は、慌てて背を向けて駆けだしたが。

その波はそもそもの規模が違った。

あまりの大きさに背を向ける暇もなく、青空を覆うように大地の大波が迫ってくる。


「ちょ、た、タイムっ! 待ってってばぁ!」


当然そんな言葉なんか聞いてくれるわけもなく。

あえなく地面に跳ね上げられる。



「うぅ~っ、ま、負けないもんっ!」


だけど正咲は諦めなかった。

とっさの判断で猫の姿を取り、中空で身体をひねり、雷をまき散らしながら回転を加える。

体重が一気に軽くなった正咲は、さながら打ち出された大砲のごとくくるくると空を舞う。

それは『ぐれいどる』、と呼ばれる猫型時の高速移動術で。

そのまま体当たりをすれば人間くらいならノックアウトさせられるのは、賢で実験済みだったりするわけだけど。

弾き飛ばされた勢いもあってかなりの高さまで飛んだ正咲は。

様子を見るためにとしっぽをつかって体勢を整え、中空でくるりと振り返る。


すると。


「うわぁ」


口から出てきたのは、驚きと感嘆の混じった呟きだけ。

でも、それは仕方ないんだろう。

目の前にいきなりすごくすごく大きい人型みたい存在がいたのだから。


いや、それは最初からそこにいたって言った方が正しいのかもしれない。

それは、この信更安庭学園のすべての敷地をベッドがわりにして、眠ってただけみたいだったからだ。


その、青空を覆うほどの大きな存在はは、まさしく人の形をしていた。

上空から見ていると、今まさに寝床から起きあがる瞬間なのが分かる。

頭や顔にあたる部分には、『赤い月』があって、塔の先端が帽子のように見えた。

一番横幅の大きい胴体部分にはあのお屋敷がはまっている。

この信更安庭学園にある建物すべてが、巨人の身体の一部になっているみたいで。


それは、正咲の目の前でひどく緩慢な動きで起き上がり……。

どんどんと正咲の方に迫ってくる。



「ぎゃくにちゃーんすっ!」


正咲は、迫ってくるそれに逆らわずに降り立った。

そしてそのまま、ダッシュで駆け上る。


「だだだだっ……とうっ!」


そして、角度が直角になる前にやってきたのは塔の先端部分だった。

息を整えながら人型に戻り、辺りを見回せばこれ見よがしに下りの階段があって。



「よ~し、探検だっ!」


時の扉の秘密を捜し求めるにはこれ以上ないシチュエーション。

だからこそ。

正咲ははやる好奇心を抑えきれずに、颯爽と階段を駆け降りていったのだった。



異世に入り込んだ事を示す、空気の変わる感覚とか。

カーヴ能力者デビューの賢のこととか、すっかりさっぱり忘れたままで……。



             (第223話につづく)







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