第216話、夏の魔物は騙し騙され闇へと沈む



―――それは、血のように赤い月が望む夜。


「―――哲のふりをしてボクを騙すなんて酷いじゃないか、ルイ?」


勇が塁の名を呼んでいる。

もう、忘れてしまったはずのその名を。

もう、この世に存在していないはずのその名を。


ずっと側にいて、今まで見たことのない類の、泣きたくなるような……そんな笑顔で。



「僕は騙してなんかっ!?」

「ないって?……じゃあ、百歩譲ってキミの言い分が正しいとしよう」


勇の事を思ってしたことなのだと。

強く訴えようとする塁のその言葉を遮るように勇は続ける。


それは、とても柔らかい囁きのようだったのに。

それだけで塁は凍り付いたように勇を見ることしかできなくて。



「ボクはね君がボクのことを好きなのは知っていたんだ。そんな君はこう思ったはずだ。哲になれば今まで見向きもしなかったボクがキミのことを見てくれるようになるかもしれない……って」

「そんな……こと」

「ない、何て言えないよね? 自分の身体に刃を入れてまで哲になったんだ。それくらいの見返りがあったってバチは当たらない……そう思ったって何ら不思議じゃない」

「……」


それは、避けようもない事実を突いていたから。

直撃を受けた塁はやはり何も反論ができなかった。



「でも、残念だったね。哲をかたった罪は重いよ。そのことに気づいてしまった以上……もう二度とボクは君を見ることはないだろう」


それは、勝手にひとりよがりな悲劇のヒロインぶって、同情で救いを得ようとしたことに対する当然の報いだったのかもしれなかった。

勇は塁が最も危惧し、恐れていた言葉を口にして、塁の元へと歩みを進める。

その手には、赤い月と赤い血の混ざり合った……焼き付くほどの光を放つ歪曲した剣が掲げられていて。


塁は、ただ呆けるようにしてそんな勇を見ていた。



「その罪、その身を持って償え」


打って代わって、怒りと殺意に満ちた勇の呟きが塁の耳を通過して。


そんなつもりじゃなかったのに。

言いたい言葉は言葉にならなくて。

塁は力抜けたみたいにその場に尻餅を突いた時。


初めて気づかされる、失った左手。

勇の剣に滴る、血の正体。

思い出すのは、勇の一撃を受けて歪んだ表情を見せる哲の姿で。


ああ、やっぱりあれは自分だったのだと。

ひどく納得している塁がそこにいて。


今まさに勇の剣が迫ってくるその事実を。

塁は観念にも近い気持ちで受け止めて……。







塁の目が覚めたのは、その時だった。


「夢……?」


夢と現実が混ざり合い、塁はひどく混乱していた。

それでも、いまだ流れ続けている涙を拭いよくよく辺りを見回すと。

そこが『赤い月』の、かつて塁が過ごしていた一室だと分かって。


どうしてこんなところにいるのか。

それまで何をしていたのか。

うまくまとまらないままに塁は寝かされていたらしいベッドから起き上がると。

ほとんど無意識のままに小窓を覆うカーテンを引いた。


「……」


外にはいつの間にか夜の帳が降りきっていて。

目に入るのは、少し欠けている青ざめた月。

それは、都会にほど近いこの場所には珍しいくらいの澄んだ月で。

一瞬、今の自分こそが夢なのではないかと、そう思った塁であったが。



「ちょっとしんちゃんっ、ノックもしないで勝手に入っちゃだめっ!」

「え? なんでそんな……って、いたい、いたいっす! わかった、わかったっすから!」


あまり聞き覚えのない女の人の声と、慎之介の声が聞こえてきて。

はっとなった塁は何を思ったのか、気付けばベッドの中に逃げるように潜り込んでいた。


それは、泣いている自分が気恥ずかしかったせいもあるのだろうが。

それからしばらく……二人のやりとりが布団越しの耳に言葉にならない音として届いてきて。


「……失礼しま~す」


遠慮がちなノックとともに、その女の人が部屋に入ってくる気配がした。

さらに、ゆっくりと近づいてきて。


「……」


隠れるように布団をかぶっていた塁にはその姿が見えなくて。

あたりを支配する静寂が、寝たふりをしている塁を見透かしているのではと思ったら余計に怖くなって。

余計に縮こまっていると、そんな静寂を破るかのように慎之介の声が聞こえてきた。



「美冬さん? 哲の様子はどうっすか?」

「どうって、まだ寝てるよ……って、ノックくらいしなさいって言ったでしょ?」


気安く、気の置けない、そんなやり取り。

それだけで二人の関係が垣間見えるようだったけれど。


「いやその、何て言うか。勇が目を覚ましたかと思ったら哲はどうしたってうるさいからさ」


続く言い訳じみた慎之介の言葉に、塁は思わず目を見張る。

同時にますます強ばる身体。

包むのは、言いようのない恐怖心。


勇が哲を探し、呼んでいる。

でも、哲ではない塁が、哲のふりをして勇のもとに行く勇気はなかった。


あのひどくリアルな夢のように。

塁が偽物であると、気付かれてしまう気がしたから。



「まだ寝てるんだしそっとしておいたあげたほうがいいんじゃない?」

「……それもそうっすね」


自身を抱き締めるように縮こまる塁を脇目に、二人のそんなやり取りが聞こえて。

すぐに部屋を出ていく気配。


塁は、それに安心するみたいに大きく息をついたが。

次の瞬間には再び起きあがっていた。


いつまでもこうしてなどいられない。

勇が様子を見に来るとも限らないのだ。


少なくとも今の塁には、彼を騙し通せる気がしなかったから。

塁は、息さえ殺してそっと部屋を出ることにした。



部屋の前に通るのは内側に曲がった細い石煉瓦の通路。

見渡せば、一つ挟んだ隣の部屋……勇にあてがわれた部屋の明かりが石の通路に差し込んでいるのが分かって。



「……っ」


そこから勇が出てくるかもしれない。

そう思ったらいてもたってもいられなくなって。

塁は逃げるようにその場から駆けだしていた。


別にどこか行く当てがあったわけじゃない。

逃げたくても逃げるわけには行かないって事も分かっていた。


ただ、とにかく自分を落ち着かせたくて。

身に積もる恐怖をどこかへやってしまいたくて。


ただがむしゃらに足を動かして辿り着いたのは。

『赤い月』の入り口……激しい戦闘があったのだと分かる、敷いてあったインターロッキングがはがれ土が剥き出しになって抉られている、そんな場所。


塁はそれを見てようやく思い出す。

絶望の色を瞳に灯した黒い翼の少女に対するように、憎悪にも似た苛烈な炎を瞳に宿していた勇。


何故、あるいは何に対して勇は怒っていたのか。

少し考えればその答えはすぐに出てきた。


怒っていたのは、偽物の塁に対してなのだと。

それはきっと、あの夢に見た通りで。


だとするならば。

塁はその報いを受けなければならなくて。

そう思うと、ますます震えが止まらない。

こわくて、かなしくて。そんな自分を再びかき抱いた時。

びゅうと、夏の終わりを告げる風か流れて。



「いい夜だね、大矢塁さん?」

「……っ」


聞こえ届いてきたのは、塁ではない哲の声だった。

塁はそれにどこか予感めいたものを感じながら、顔を上げる。


見えるのは、あの屋敷へと続く石畳の道。

その先の、思ったよりも遠い所に哲の姿があって。


―――あなたは本当に哲、なのですか?


塁がそう問いかけるよりも早く、哲は一つ笑みをこぼし、急に駆け出していく。


一人、取り残される塁。

冷静に考えれば哲を追いかける事は決していい判断ではなかったわけだが。

その時の塁は、当に正常な判断ができない状態になっていて。



「っ!」


ふと聞こえてきたのは、『赤い月』の上階から下ってくる、誰かの靴音。

もしかしたらそれは勇かもしれない。

そう思ったらいてもたってもいられなくなって。

塁は哲を追いかけるように駆け出していた。

取り返しのつかない、あの夢のような事態が起こる前に。

塁の役目を変わってもらおうとして。



そんな塁を追いかけるものは……幸いにも青の月だけであった。

その視線に晒されてしばらく。

辿り着いたのは、千夏達のいた屋敷の正面入り口からは遠い、吹き抜けになった中庭が見える……そんな場所で。


塁はその場所に、すぐに違和感を覚えた。

何故ならば、屋敷内とこちら側を仕切る高い高い壁が、そこだけなくなっていたからだ。


初めてここに来た時は、そんなことはなかったはずで。

まるで屋敷が動き変化してでもいるかのような、そんな錯覚を覚えたけれど。



「……えっ!?」


塁は、ただただ驚愕の声をあげて立ち尽くす。

何故ならば、塁がやってくるのを待っていたようにも見える哲が。

壁はなくとも変わらずに張り巡らされていた、無機物以外は寄せ付けないはずの異世の壁を躊躇なくすり抜けたからだ。



「……どうして?」


千夏が入ってはいけないと自身の身をもって証明してくれたはずなのに。

哲は、少しも傷ついた様子もなく。

まるでそこには何もなかったかのように屋敷の中庭に降りたって。


呆然とする塁に向かって振り向く。

そして……かつて塁がイメージしていたような柔らかい笑みを浮かべて、



「塁さん、キミはどうやらたいそう騙されやすい性質みたいだね? 屋敷の中に入れないと、そう思ってたでしょ? ……残念ながらそれは嘘だよ」


そう、言った。


「なんで、そんなこと……」


塁が一番信頼を置いていた人の嘘。

それを目の前で突きつけられて。

かすれるその声は、塁の中にある根本的な何かが壊れてしまった証でもあって。

哲は、そんな塁の呟きに答えるように言葉を続けた。



「きみに入ってほしくない、そんな理由があったんじゃないかな? 何せここの屋敷の主と僕らパームは手を組んでたりするしね?」

「……」


それはつまり、この屋敷の主の元で働いている千夏もそうだと、そう言いたいのだろう。

塁は、事実かも分からないそのことをただただ打ちのめされるようにして受け入れていて。



「でも、このまま騙されてるのもしゃくでしょ? なんなら屋敷の中に入っちゃえば? ほら、閉じこめられた……真澄さんだっけ? 助けてくればいいよ」


柔らかい笑顔で、手招きしてくる哲。

塁はまるでくぐつにでもなったかのように、言われるまま……入ってはいけないはずの異世の壁の向こうに足を踏み入れていた。


まるでそこには何もないかのように。

何に邪魔されることもなく。



「……っ」


変わりに受けたのは心への衝撃。

塁はその衝撃によろけ、涙が頬を伝うのを感じていた。


もう、何がなんだか訳が分からなくなって。

もう、何もかもどうでもよくなって。



「はははっ、本当に騙されやすいんだね? もう笑うしかないや」


そんな、哲の哲とは思えない笑い声が響いて。



「……やっとそろったようだねえ。最後の生け贄が」



誰とも分からない男の人の声とともに、足ついていた大地が大きな異形の口に変わっても。


塁は何もできずにいて……。



             (第217話につづく)







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