第210話、過去と未来に交信する男、顕現す
紅が姿変えし、弥生の偽物を倒してすぐ。
深い深い地下の、風の流れのないはずのその場所に。
魂まで凍り付きそうな……一陣の風か吹いた。
「これ、はっ……」
「何っ!? い、いつの間にこのようなっ」
「ううっ、さ、寒いっ!」
何事かと、それぞれが声を上げる中。
最初に倒れたのは晶だった。
まるで、抗い切れぬ甘美な眠りへと誘われるかのように。
ちくまはそれに必死に抵抗しながら、頭から地面へくずおれようとする晶を、何とか支えた。
そんな晶から、体温は感じられなかった。
それは、ちくま自身の身体も同じくらい冷えきっていることを意味していて。
ぎりり、と心を抉られるような感覚。
その感覚に、ちくまは確かに見覚えがあった。
それは……緩慢に訪れる死の気配。
ちくまがそう呼ばれるよりも前から、幾度となく体験してきた、癒えることもない心の傷。
「くっ、人かたならば幾ばくかはマシか……」
すぐ側で聞こえる、こゆーざさんの声。
顔を上げれば、膝をつき、凍える声を吐き出すこゆーざさんがいた。
決して息の白くならない、だけど凍えていると分かる声。
甘い誘惑めいた寒さに、必死に耐えているのだろう。
あっさりと受け入れたようにも見える晶とは違って、ずいぶんと苦しそうだった。
「こゆーざさん、だいじょうぶ?」
「……あ、そうか、私のことか。ちくま、君は比較的余裕に見えるな。故あって、私は人のままでは長くはいられぬ。猫の姿に戻れば、こうは語れなくなるだろう。
そうなる前に私たちを地上へは来んではくれぬか? 下の方がこの我らを封じる力が強いらしい。それに、妹たちが心配、だ……」
最後の力を振り絞るようにこゆーざさんはそう言い、猫の姿になってうずくまる。
「……分かった、任せて、こゆーざさん」
それにちくまはしっかりと頷き、そんなこゆーざさんをそっと抱き上げると、自分の懐へと入れた。
ちくま自身もひどく冷えきっていたから、暖かくはないだろうが。
そんなこゆーざさんの言葉に、応えたかったからだ。
「うん……しょっと」
そして、自分に気合いを入れるようにして息を吐き、眠ったままの晶を背負い、ちくまは歩き出す。
目指すは地上。
すぐそこにある、エレベーターの所へと。
しかし。
重い足取りでたどり着いたちくまの視線の先にあったのは、凍り付いたように動かないエレベーターの姿だった。
かじかむ手でボタンを押したが、何の反応もなく。
「じゃあ、階段でいこう」
落胆を隠しきれないままに呟き、ちくまは再び歩き出す。
しかし、そのことでの精神的ダメージは大きかったらしい。
階段へと続く道までやって来た所で、何かにつまずいてしまった。
「あっ……」
ちくまは声を上げ、抱えていた二人が傷つかないように肩から落ちる。
瞬間、肩からひびが走ったかのような衝撃がちくまを襲う。
それはまるで全身が氷の塊になっているかのようで。
ちくまの眠気にあらがおうとする気力を奪うには十分な威力を持っていて。
ちくまは倒れたまま動けない。
だけどその時。
そう言えばさっきもこんなことがあったなと、ちくまは思いだして。
「ごめん……後は任せた」
誰かに頼むように、自分に言い聞かせるようにしてちくまは呟く。
その言葉に、応えるものはないように思われたが……。
「お、今度はこのナイスガイなオレの番かい? まぁ、不思議なもんだな、世界に自分が二人いるのを知ってるってのは」
一瞬の間があって、ちくまは何事もなかったかのように起きあがった。
そしてぶつぶつと呟き、背負っていた晶とこゆーざさんを降ろす。
「魔精球っていう隔離された異世へとご招待しよう。この冷えきった世界にいるよりはマシなはずだ」
そして誰も聞いていないのに、そんな解説を始める。
気づけばその両手には握り拳大の真紅の珠があって。
ちくまが手を離すと、珠はあっと言う間に巨大化し、真ん中から裂けて。
大きなあざとのごとき上下運動をしながら二人に近づき、そのままぱくりと飲み込んでしまった。
しばらく地面を蝉動していたそれは、やがてその大きさを小さくし、ちくまの元に返ってくる。
ちくまはそれを、またまたいつの間にあったのか、青銀の二丁拳銃が備え付けてあるホルスターへと収納した。
「モンスターのボールじゃあないのかよ! なんて言ってたりしてな」
また独り言。
誰かに聞かせるみたいに。
「しっかし、この寒さは金属にも堪えるかもわからんね」
言葉ほど寒そうな様子を見せずに、軽い足取りで動かないエレベーターのほうへと引き返す。
「おっす、オレナイスガイ。ちょっと失礼しますよ」
そして、ふざけてるようにしか思えない口振りでエレベーターに向かって手を挙げたかと思うと。
専用ドライバーでもなければ開かないはずのエレベーターのパネルを開き、何やら操作すると……突然エレベーターが復帰した。
ちくまは口笛を一つこぼし、そのままエレベーターに乗り込む。
「……しっかし、これでオレに会いに行ったらどうなるのかな? 案外マジで死んだりしてな。ドッペルゲンガーみたいなもんだし。同じ人間は同じ世界では一人しか存在できない、みたいな?」
エレベーターの中で響く、自分の世界に入っているかのような独り言。
どうやら、それが癖のようだったが。
少なくとも、いつものちくまとは似ても似つかない、そんな雰囲気があった。
別人格。
その言葉で片づけてしまうのは簡単だが……。
少なくとも、ちくまの中に複数の人格があるのは確かなようだった。
そんなちくまは、さして時間をかけることもなく地上へと到着して。
「さて、まずは美里ちゃんたちの所に行くか」
そうひとりごちると。
何処にいるのか分かっているかのように、迷いなく走り出した。
やがて辿り着いたのは。
根元から破壊され、対面の吹きさらしが覗く渡り廊下だった場所だった。
「うぅむ、リアルに見ると破壊の凄さがよく分かるな」
崩れ、廃墟になっているその場所に立ち尽くし、感嘆ともとれるため息を吐くちくま。
「……おっ?」
と、その瞬間。
すぐそばで感じたのは、肌に触れれば震えくるほどの強い『木』の属性(フォーム)を宿したアジールだった。
振り向くとそこにあるのは美里の姿。
その手に弓と、二本の矢をつがえている。
鏃の示す先には、眠ったように倒れ伏すカナリ、外傷とも相まって、満身創痍でうずくまるタクヤの姿があった。
「【美繰引狭】サード、健魂の三擲っ!」
力ある言葉とともに発せられる、光速の矢。
違わず、それぞれがカナリとタクヤに向かって飛んでいく。
その様を、何するでもなくちくまは見ていた。
むしろ、美里の集中力の妨げにならぬように、ひっそりと黙って矢の軌道を見つめていた。
するとやがて、黄金の矢は光の粒子となり、二人に命中する。
刹那、二人を包んだのは癒しの力秘めた光の奔流だった。
ひどい火傷を負っていたタクヤの傷が、みるみるうちに回復していくのが分かる。
だが……。
「それだけ、か。やっぱり、氷を溶かすまでは至らない、と」
それはちくまの独り言だったが。
当然、美里にもその声は届いて。
「ちくまくん? ……ううん、君は誰?」
訝しげな、それでいて確信の持てないだろうことがよく分かる美里の声。
「あぁ、どうも。これでも一応ちくま本人なんだけどね。それじゃあ美里ちゃんも納得はいかないだろう。そうだな、ちくまという存在を護り、つき従うもののひとり、と認識していてくれればかまわない。ちくま……主はこの氷の能力の影響でお休みをいただいているところなもので、こうして代役を務めさせてもらっているんだ」
「……ちくまくんの、ファミリアさん?」
「いや、厳密には違うな。ファミリアならこの氷の力でとうの昔に動けなくなっているはずたからね。例えるならこちらの世界で言う、属性(フォーム)の集合体といったところか。ファミリアというより、ちくまの力そのもの、と言うべきだろうな」
だから少なからずこの氷の世界の影響は受けているし、氷ドームに触れるようなことがあれば、死活問題ではあるのだが。
それはここで言うことでもないだろうと、ちくまは長ったらしい自己紹介? を終える。
「ええと、つまり?」
しかし、くどすぎたせいなのか、あまり理解は得られていないようだった。
ちくまは、軽く頭を振って。
「つまり、美里ちゃんたちの仲間だってことを分かってもらえればそれで十分だよ」
そう言って笑う。
そんなちくまを、美里は観察するように見つめていて。
「なーんかどこかで見たような気もするけど、……うん、君の話、信じるよ。
君が基本、ちくまくんであることに変わりはないみたいだしね」
偽物の跋扈するこの場所で、よくそう言えるものだと自ら思うちくまだったが。
美里には美里なりにそう思うところがあるのだろう。
無駄に警戒されるよりは面倒がなくていいと、ちくまがそう思っていると。
「あ、でも、君はちくまくんだけどちくまくんじゃないんだよね? ……うーん、ややこしいな。やよちゃんとさっちゃんみたいだな。みさとは君のこと、なんて呼べばいい?」
突然、そんなことを聞いてくるから。
「……ゴールド、と呼んでもらおうかな」
ちくま……いや、ゴールドはほんの僅かだけ黙考し、そう答えたのだった。
低く、しかし濃紺に染まる空に響く声で……。
(第211話につづく)
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