第207話、凍えるような男からは、情熱すら奪えない
仁子と敵との戦いは予想以上に激しいものとなるだろう。
そう思った弥生……ではなくさつきは。
せめてその戦いの邪魔にならぬようにと氷ドームの描くカーブにそって駆けだしていったのだが。
それと同時に自身に任された氷ドームの破壊を行うことが、何故かできないでいる自分に気づく。
弥生と変わらない能力を使うことのできるさつきにとって、氷を溶かすことなど造作もないはずだったのにも関わらず。
―――【深真往生】ファースト、スパイス・ロア。
またの名を『吸生』とも呼ばれる能力。
それを受けた対象は、熱量を奪われる際に炎を生み出す。
そのことを分かっていたからこそ、仁子だってさつきに氷ドームの破壊を任せてくれたはずなのに。
「……」
ついには立ち止まり、白いアジール沸き立つ手のひらを近づけようとしたが。
さつきの意志の外でそれに触れることを躊躇っている手のひらがそこにあった。
「……何か罠でもあるというの?」
何かの危機を察知して、と言うのが考えつく至極まっとうな答えだろう。
だが、その答えでは納得のいかない自分がそこにいるのをさつきは確かに自覚していた。
何故だか、それに触れたら最後、大事なものを失くしてしまうかのような。
そんな潜在的な恐怖がそこにあったのだ。
「……何よっ、こ、こんなものっ!」
そこで本能に従って引いていたのなら、まだ救いはあったのかもしれない。
しかし、生来の負けず嫌いな部分と、仁子や美里の足を引っ張るわけにはいかないという気持ちが。
そして本物の弥生でないからこその無意識の自尊心が、この時ばかりは裏目に出た。
心内から溢れてくる警告を半ば強引に無視して、『吸生』の力のこもった右手を降り下ろすように氷ドームへと触れさせる。
だが……。
「なっ?」
あらゆるものを透過するはずのさつきの手は、ただの手であるかのように軽い音を立てて氷の壁へとぶつかった。
一瞬の混乱。
「うぅっ!?」
そしてその瞬間。
まるで手の先から延びる神経が凍ったかのように、さつきの全身を駆け巡る冷たい感触。
「あ……手が、離れなっ!」
慌てて引っ込めようとしたがもはや手遅れで。
張り付いて取れない指先。
このままではまずいと、皮くらい引きちぎるつもりで力を込めたが。
続いて流れ込んできたのはその力さえ奪うような激しい脱力感だった。
「こ、れはっ……」
かつて似たような体験をさつきはしたことがあった。
それを思い、気ばかり焦るが……体はもう凍り付いたように動かない。
(あの時はどうしたんだっけ……)
霞む思考で何とか打開策はないものかと考えようとするさつき。
すべての行動権を奪われ、溶けてなくなってしまうかのような感覚。
―――そんなアジールを放つ音茂知己に初めて会った時。
自分はどうやってそれを乗り切ったのか。
考えてみたけれど、どうしても思い出せなかった。
何かが、それを考えることを頑なに拒否していた。
ぴしり。
そして……ついには聞こえてくる、自身の崩壊の音。
(せめてこの事をよっし~に伝えなきゃ……)
結局足手まといなのかと。さつきはただ後悔する。
せめてもと思っても、思うだけで身体が言うことをきかなくて。
「よっし~……ごめん」
辛うじて出たのはそんな言葉だけで。
さつきの意識の部分にまで、冷たい何かが広がっていくのが分かって。
この世界からさつきがその存在を剥離させようとした、正にその寸前。
「おい、大丈夫か! しっかりしろ!」
誰かのそんな声が聞こえて。
凍っていたものが溶けだし、ふっと自由が利くようになるさつきの身体。
浮上していくさつきの意識。
「あ……」
そのままぐらりとよろけそうな所を支えられて。
さつきがそちらに視線を向けると、どこかで見た気がしなくもない、優しそうな青年の姿がそこにあった。
「危ないなぁ、気づくのが遅れたら消えてたかもだぞ」
「あ、あなたは……っ、塩崎克葉っ!」
まだ身体の芯にしびれのようなものが残ってはいたが。
間近にその青年の顔を見て、その正体に気づいたさつきは、慌てて起きあがって青年……克葉から間を取った。
すると克葉はきょとんとしたあと苦笑を浮かべる。
「あれ? 俺、君とどこかであったっけ? ああ、よっし~たちのお仲間さんかな?」
仲間も何も、こうして敵対するよりも前……克葉が存命の時に何度も会っているはずなのに。
そこはかとなく感じる、克葉の言葉に対しての違和。
「うん、そうだ。思い出したぞ。君、法久の彼女……って言うと本人に怒られるかもしれないけれど、弥生ちゃんにすごく似ているね? 彼女のファミリアさんなのかな?」
それは……。
口にした克葉にとっては些細な世間話のようなものだったのだろう。
だが、さつきにとっては。
自分が弥生であると信じて疑わないさつきにとっては。
自身の存在価値を揺るがしかねない大きな意味を持っていた。
「なにを言っているの? 私が弥生本人よ?」
自然とかすれる声。
確信の持てない言葉尻。
まるで、否定しつつも心のどこかではそうだと知っていたかのように。
それを見た克葉は少し辛そうに、得心して頷いて。
「……そうか。君は知らなかったんだな。カナリちゃんって言ったっけか、ちょうど彼女と同じように」
なにが同じなのか。
はっきりそれを言わないのは。
その事実に遅ればせながら気づいた克葉の思い遣りだったのかもしれない。
自分のことを人間だと思いこんでいた……思わされていたカナリ。
あの時弥生が、怒りとも悲しみともつかない感情を覚えたのはどうしてだったのか。
同族嫌悪だと皮肉っていたのは何故だったのか。
地下にあるエレベーターで二手に分かれた時。
ふと目のあった弥生が、悲しげな、申し訳なさそうな顔をしていたのはなんのためだったのか。
その全てに対する答えは一つ。
今こうしてここにいる自分が、弥生ではない誰か……いや、弥生によって創り出された個のない形代だったのだという、純然たる事実だった。
「……」
筆舌に尽くしがたいほどの衝撃。
そのことに気付いてしまったさつきは。
何も言えず、凍り付いたかのように立ち尽くすことしかできなかった。
絶体絶命のピンチに駆けつけてくれるヒーロー。
自分にそんな人などいないことなど、偽物の自分にはいるはずもないことなど、さつきにはよく分かっていて。
そんなさつきを見て、敵であるはずの克葉は、鏡返しのように心痛めた様子で顔を伏せる。
そしてそのまま、それがやらなければならない義務であるかのように……言葉を紡いだ。
「自分でこんなもの張っといてなんだけどさ、これには近づかない方がいい。本来は外側からのカーヴ能力を無効化し防ぐものなんだけど……その対象は当然ファミリアにも当てはまるんだ。だから……っ! お、おいちょっと!人の話聞いてるかっ?」
話を聞いていないのか、話を聞いたからこそなのか、白い光を携えてその手のひらを克葉へと向けるさつき。
単純に防げるものでないことを悟った克葉は、そこで初めて焦りのような表情を浮かべて見せた。
「……触れられないのなら話は単純よね。その能力者であるあなたを倒せばすむだけのこと」
皮肉にも、思考停止に陥り、その存在すら否定しかけたさつきを救ったのは、目の前にいる克葉の存在だった。
たとえ自分が何であろうとも。
たとえ仁子がそう思っているのがさつきではなく弥生だったとしても。
さつきにとって大切な友達の願いを。
『氷ドーム』を破壊するという、確かにさつき本人に向けられたその言葉を。
さつきは守りたかった。
その氷の壁がさつきを拒むのならば、その術者を狙えばいい。
今のさつきには、それ以外に選択肢は浮かばなかった。
「……おいおい。君がピンチだったから危険を省みずこうして出てきたってのにその仕打ちは酷すぎやしないかい?」
しかし……そんな言葉とは裏腹に、克葉にさっきまであったはずの焦りは、どこかに消え去ってしまっていた。
むしろ、落とされるかもしれないこの状況で、アジールすら展開させず、無防備にただ苦笑を浮かべている。
「どちらかが死ぬかもしれない戦いに酷いも何もないでしょう?」
そんな余裕ぶりにさつきはかっとなって。
実際恩人には変わりない克葉に向けて、さつきは腕を振りあげる。
「【深真往生】、ファースト、スパイス・ロアっ!」
そして力ある言葉とともに白い残滓の引く手のひらを降り下ろそうとして。
「……っ!?」
その瞬間。
いきなりぐん、と全身の体温が奪われたかのようなそんな感覚に、さつきの手のひらは克葉の目と鼻の先で止まった。
霧散するさつきのアジール。
「ふう、何とか倒してくれたみたいだな、よっし~が」
「な、何を言って……」
氷ドームに触れた時とは違う、苦痛のない甘い死の眠気を誘う寒さ。
それに無理矢理抗うようにしてさつきは問うた。
「……すごいな君。まだしゃべれるのか。我慢するのはそれはそれで苦痛を伴うから、俺のポリシーに反するんだけどな。まぁ、せっかくだし質問には答えようか。さっき、氷でできたゴーレムは見ただろう? あれは実は君たちを襲うためのものじゃないんだ。簡単に言えばスイッチだな。あれを倒すことにより、俺の三つ目の能力が発動されることになってる。目的達成のために支障となるファミリアさんたちに休んでもらう……そんな能力のね」
長々と、それがこうして姿を現した目的だと言わんばかりに克葉は事の顛末の解説を始める。
そこで初めて気づかされたのは、能力者を攻撃するという選択肢しかないのなら、
相手だってそれを見越して手を打ってくるのは当然のことだという後悔だった。
初めから、克葉分かっていたのだ。
さつきの攻撃が自分に届くことなどないことを。
「目的って何よっ……よっし~たちに手を出したら、許さない……からっ!」
だからといって、はいそうですかと納得できるはずもなく。
冷たくも甘い誘惑を振り切って、さつきは再び手のひらに白いアジールを灯した。
すると、克葉は感嘆したように目を見開いて。
「強いね君は。そう言う子は嫌いじゃない。心配しなくても大丈夫だよ。決して悪いようにはしない。女の子は傷付けない。それが俺のポリシーだからね」
気勢を張るさつきに儚げに微笑んで。
克葉の手が、さつきの翠緑の髪を撫でる。
「よし、君にはこのあったか毛糸帽子と手袋をあげよう。くれぐれも無理はしないようにね」
そして克葉は、そう呟いて。
そのまま片手をあげて背中を向けて、その場を後にした。
最後まで無防備に。
結局。
そんな克葉を、さつきは追う事もできなくて……。
(第208話につづく)
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