第177話、愛しさだけで、どこへでも走ってゆけるから
―――透影・ジョイスタシァ・正咲。
カナリの一番の……最初のともだち。
もうひとりの自分。
親に等しい、自らを作りたもう創造主(マスター)。
そしてその名は。
自分の使命と生きる価値……すべてを思い出させるための、魔法の言葉だったのだと、カナリは気づく。
そう、カナリはその名を聞いた瞬間にすべてを思い出したのだ。
自分の知らぬ所で落とされる無慈悲な鉄槌。
それは衝撃という言葉では表現しきれないくらい、カナリに大きな影響を与えていた。
気づけばその場から逃げ出してしまったくらいに。
だが。
カナリが逃げ出したのは、自分が『ひとではないもの』という事実から、ではなかった。
彼女は、自らに与えられた使命から逃げ出したのだ。
かつて主が、そうしてカナリに託したように。
そこにあるのは、使命への恐怖……絶望。
おそらく、彼女がこの世に生まれ落ちたばかりの頃なら、そんな感情は持ちえなかっただろう。
たが、皮肉にも主のかわりに人として生きることに慣れてしまった今となっては、もはやその感情は彼女の存在理由を危うくするほどに、大きく膨れ上がっていた。
―――このままでは消えてしまうかもしれない。
そんな仁子の危惧は、仁子が予想していたものとは真逆の理由で、現実味を帯びようとしている。
そこに、大きな矛盾を孕みながら。
がむしゃらに走って……カナリがふと顔を上げたとき。
目の前には青空が広がっていた。
そこは、遮る天井のない場所。
金箱病院の中で、最も空に近い場所だった。
遠くから近くに渡って見える、人々の暮らす世界。
遙か彼方に見える、傾らかに続く山々。
「……」
ここでカナリが使命を投げ出せば、時を置かずして消えゆく運命にあるという、この世界。
だが、本当にこの世界は終わりを迎えようとしているのだろうか?
カナリには、それがどうしても信じられなかった。
もしかしたら、そんなことは起こらないんじゃないか、とさえ思える。
逆に、使命をまっとうしたとして……本当に世界は救えるのだろうか?
自分にそれほどに価値があるのだろうか?
どちらにしても、この世界の結末は変わらないんじゃないだろうか?
たとえ自分が使命から逃げたとしても。
そう思った瞬間、陽炎のように霞み揺らぐ……カナリの身体。
人ではない、その証。
カナリはただじっと、外の世界を見つめ続ける。
それは迷っていたから、なんだろう。
答えが欲しかった。
生まれて初めて、自分ひとりの力ではどうにもならない問題に直面したかのような、そんな感覚。
残酷なひとことでもいい。
救いのひとことでもいい。
ここから、背中を押してくれるきっかけが、今のカナリには必要だった。
「……ばかじゃないの」
そんな考えに、カナリは自嘲する。
そんな自分の生き死にまで、他人に決めてもらわなければ何もできない、なんて思ってしまってる自分に対して。
いや、他人……なんかじゃない。
―――わたしは、あなたにとって必要ですか?
その『答え』が欲しいのは、きっと……。
「ば、ばかじゃないのっ」
カナリは自分の考えに身体中が沸騰する思いだった。
ちょっとでもそんな事を考えてしまった自分が、なんかどうしようもなく恥ずかしかった。
第一、自分は何も言わず逃げ出して、こんなところにいるのだ。
そんな都合よく、望んだシチュエーションなんて、訪れるはずはないのだ。
首をふり思いを振り払うようにして、カナリが再び空を見上げた……その瞬間。
そんなカナリの背中越しに、ダン! と勢いよく、屋上のドアが開き放たれる。
ちくまは疾かった。
足には自信があった仁子が、舌を巻くほどに。
大気に漂う風が、縛り付けるはずの大地が、彼に味方しているようで。
それでいて、当てなどないはずのちくまの足取りには、全く躊躇いがなかった。
まるで、最初から彼女の居場所が、分かるかのように。
事実、それは正しかったのだろう。
次にちくまが足を止めたのは、金箱病院でおそらく一番空に近い場所。
立ち入り禁止の看板のかかった鎖のある、屋上へとつづくドアの前。
仁子が、初めて来る場所だった。
当然、ちくまもそうだろう。
おそらく、カナリ自身も。
ちくまは、仁子がそんな事を考えている間もなく、外開きのドアを勢いよく開け放つ。
そしてすぐさま中に入っていくので、後に続こうとすると、さらに勢いを増して迫ってくる鉄製のドア。
ゴンッ!
「……っ」
どうやら、後ろに仁子がいることなど頓着も気付きもせずにいたらしい。
咄嗟に手で庇ったが、仁子はそれに額を強かに打ち付け、言葉を失う。
思わず感情のままに、怒り狂ってやろうかとも考えた仁子だったが。
カナリに黙っていた、と言う罪悪感が先に立ち、
ここはまずちくまに任せたほうがいいかもしれないという結論に至り、そこで足を止めていて……。
※ ※ ※
仁子に、カナリがいなくなったという話を聞かされた時。
ちくまが最初に思ったのは、信じられない、という思いだった。
それは、カナリが人ならざるものであったという事実ではなく。
彼女がそんな行動をすることに。
ちくまの前ではいつも強気で、自信たっぷりだったカナリ。
その生命の強い輝きすら見えるようで。
彼女らしくないって、そう思ったからだ。
消えてしまうかもしれないことに対しては、怒りすらあった。
何も知らないままだった自分なら、どうしてそんなことくらいで! ……って。
だけど、ちくまは今、走っている。
何も考えずがむしゃらに、カナリの元へ向かって。
彼女の、心地よい『音』によって構成された、気配を手繰って。
何故なら、事実を知って逃げ出してしまったカナリの気持ちが、今のちくまには分かる気がしたからだ。
きっと、怖かったんだろう。
ちくま自身だって、克葉に言われて初めて、そう思ったのだ。
今まで考えもしなかった、自分自身のこと。
弥生たちに対して誤魔化してしまったのは、それを知られなくないって気持ちになったからに他ならない。
当たり前に受け入れてくれている今が、変わってしまう。
そんな恐怖があった。
きっと、彼女たちならそんなことはないのかもしれないけれど……それでも。
そんなちくま自身とカナリの身に起こっていることは、根本では違うことなのかもしれない。
人の心なんで、他人が本当の意味で知ることなんかできないと言うが。
それでもちくまは、今のカナリの気持ちが分かると、そう言いたかった。
なんて、彼女を探す理由をいろいろと考えはするけれど。
ちくまが走っているのは、ただひとつの単純な理由、なんだと思う。
―――彼女に消えてほしくない。
ただ、それだけのことだった。
そのためになら。
躊躇って口にすることもままならなかった自分のことだって、晒しても構わない。
そう思うくらいに。
(第178話につづく)
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