終末の空が青色じゃなくなっても、愛の歌を歌おう

第144話、カオナシの襦袢、悪魔の片思いに気づかされる

（何故……何故ワタシは、逃げている？）

梨顔は自分の無様な姿が信じられなかった。

だが、心ではそう思うのに、身体が言うことをきかないのだ。

例えるなら、重い重い着ぐるみを着ているかのように。

呼吸も重く、動くのも辛い。

それは、この身体を構成する『パーフェクト・クライム』が、恐れているようにも思えて。

（バカなっ、『パーフェクト・クライム』に恐れなどありはしない！）

梨顔は、その考えを必死に否定する。

『パーフェクト・クライム』は、最強だと。

『パーフェクト・クライム』から授かったこの力で、『パーフェクト・クライム』を暴こうとするものを滅してやるのだと。

ただそれだけを考えて生きてきたはずだった。

なのに、後一歩で事が成せる所だったのに、どうして自分は逃げているのだろう。

音茂知己が現れたのは、確かに誤算だったが……。

「……なんデっ、何でいるんだヨっ……にげなきャッ！ 逃げ……くっ！？」

と、知己の事を考えた瞬間。

再び、直接脳髄に伝わるかのような恐怖が梨顔を襲った。

意図せずに勝手に口から出た言葉にパニックになる梨顔だったが、それでも足は止まらない。

逃げなければ、逃げなければ。

とにかくその行動だけを、梨顔は優先してしまう。

（どう……なってる！）

意味が分からなかった。

こんなはずじゃなかった。

梨顔は混乱の極みにあった。

だから……。

「どうしてあなたが、知己お兄ちゃんを怖がるのか、分かりますか？」

それほど大きな声でもないのに、そんな呟きが、どこかで聞いたような声がして。

ひどく耳に残って、逃げることを優先していたはずの足が止まったことにも、梨顔は気付かなかった。

「なんだっ、お前はっ！？」

まるで、忽然と現れ、梨顔の行く手を塞ぐように立っている、黒髪おかっぱの……沢田真琴（さわだまこと）と呼ばれるが発したその言葉に。

心を見透かされたような気がして、焦って梨顔は叫び、銃を構える。

「それは、あなたが『パーフェクト・クライム』の新たな容れ物として、つくられた存在だから。『パーフェクト・クライム』に同調しているあなたは、知己お兄ちゃんを怖がるのは当たり前。……だって正体を知られるのがいやだから。自分が『パーフェクト・クライム』であることを知られるのが、何よりいやだから……」

「……黙れっ、黙れ黙れ黙れーーーっ！！」

何を言われているか分からない。

図星。

こいつは何を、言っている？

この子は何を、知っている？

目障りだ、自分を知るものは殺さなくちゃいけない。

だが、どうしてこいつは、自分の知らない自分を知っている？

相反し混ざり、入れ替わり、ぐちゃぐちゃになる、二つの感情。

梨顔の感情と、『パーフェクト・クライム』の感情。

混乱して、梨顔が立ち尽くしていると、少女はさらに言葉を続けた。

梨顔がしたみたいに……追い詰めて追い詰めて追い詰めるかのように。

「黙らない。だってわたしが『ここに来た』のは、あなたの偽りの夢をおわらせることだから」

「何だっ、クソガキぃ！ 何がいいたいっ！」

「金箱病院への電話……その内容、憶えてますか？」

「……っ！」

いきり立ち、詰め寄りかけた梨顔だったが。

電話という言葉を聞いて、びくっと動きを止める。

電話……電話と言えば、『娘の容態を知らせる電話』しか思い浮かばない。

「きさまっ。娘に、何をしたぁ！」

激昂して真琴を掴みあげる梨顔。

だが、真琴はそれでも表情を変えずに言葉を続けた。

「頼まれました。勝手に、お父さんの想いを奪ったひとがいるから取り返してほしいと。……だからわたしはここにいます」

「な、何をっ。俺の想いがどうしたっ」

恐れることなど何もないはずなのに、梨顔は思わず手を離してしまう。

とん。と、階段でも降りるように地面に降り立った真琴は。

ふう、と一つ息を吐いて。

「もう一度聞きます。あなたは電話の内容を覚えていますか？」

念を押すようにそう言った。

知らず知らず気圧され、後ずさる梨顔。

「む、娘が植物状態で、原因が分からないと……」

そこまで言って、梨顔ははっとなる。

そもそもどうしてこいつは、そのことを知っている？

そんな猜疑心と、驚きの表情で見下ろす梨顔。

しかし真琴は首を振り、それに答えた。

「違うよ。あなたは……そう思いたかっただけ。自分にはない家族のつながりというものに固執していただけ。あなたはそう願ったんだよ。あなた自身の力で……」

「俺の力、だと？ 何をバカな！ 俺が、娘があんな目にあうことを、願っていたとでも言うのか！？」

声を荒げる梨顔。

しかし真琴は、悲しげに……哀れむように、首を振った。

「憶えて、ないんだ。都合の悪いことを忘れるのも……あなたにかけられた願いのひとつだったんだね。わたしがあなたに、電話をしたことも……」

「な、なに……」

言われて思い出す梨顔。

この、ひどく耳に残る声の正体。

それは電話の話し相手、その声なのだと。

そして……。

それに気付いた瞬間だった。

自分のものであるはずの『悪魔』が。

笑い声をあげながら……梨顔の願いをかみ殺したのは。

その悪魔はフラッシュバックする、電話の内容だった。

『梨顔……トランさん？』

『そ、そうだ。娘の容態は、どうなんだ？』

『娘さん？ 誰のこと？』

『何をバカな！ 歌恋のことに決まっているだろう！』

『ああ。稲葉歌恋ちゃんのことだね。えっと……『パーフェクト・クライム』の影響によって受けた心の傷が深くて、意識を取り戻すのは難しいかもしれないの。植物状態、だって』

『お前、何を言って……』

『だけどね、梨顔トランさん。あなたに歌恋ちゃんからの伝言を預かってるの。《お父さんの想いを奪わないでっ。お父さんのふりなんてしないで！ 私はあなたなんか知らない！私はあなたの娘なんかじゃない！》……って」

気付けば梨顔は電話を切っていた。

だって、理解できなかったから。

したくなかったから。

梨顔が最初に、今の自分が偽りだと気付いたのは、まさにその時だった。

梨顔が本当に壊れたのはその時だったのかもしれない。

「あはははははは！ そんなバカなことがあるか！ じゃあ、何だよ！？ 俺は誰なんだよっ！」

「最初に言った通り、だよ。あなたは新しい『パーフェクト・クライム』の器として、パームに作られた存在なの。パームはあなたを……梨顔トランという個を新たに作ったの。これは、『パーフェクト・クライム』の本質でもあるけど……だからあなたはどこかで、自分にはない家族に憧れがあった。だから……自らに与えられた悪魔の力で、それを願ったんだね。でも、あなたは憧れていたはずの家族というものをイメージできなかった。だからその時、身近にいた稲葉設永さんが持っていた家族の絆に目をつけたんでしょう？ 稲葉設永という、かつて若桜高校の教師だった男の立場を使い、『パーフェクト・クライム』によって傷つけられた娘のことを憂う、家族思いの自分を演じることを願ったんでしょう？」

まるでエンジンがかかったかのように訥々と、梨顔にとって認めたくない真実を話す少女。

認めたくないのにそれが真実だとわかっている自分が嫌で。

卑屈にそれを否定しようとして、梨顔は叫ぶ。

「家族の絆が欲しくて！ 他人になることを願っただと！ もっとマシな嘘をつけ！　そんなことあるわけがない！……そうだ、そうだよ、あるわけないだろうが！ そもそもなぁ、俺の娘は深花の化け物に殺されかけたんだよ！ 『パーフェクト・クライム』なんかじゃない！ 化け物自身が証言したんだなぁ！ 嘘のツメが甘いんだよ！！」

とっさに思い出したことではあったが。

梨顔の言う通りであるならば、確かに真琴言っていることは辻褄が合わない。

だが、それはあくまで、梨顔が言った通りだったらの話なのだ。

事実は違う。それを真琴は知っている。

だから話した。まさしく最後の詰めとでも、言わんばかりに。

「それもあなたの勘違い……ううん、あなたの中にいる『パーフェクト・クライム』に、都合よく捻じ曲げられた記憶、なんだよ。『パーフェクト・クライム』は、正体を知ってしまった麻理ちゃんを狙ってた。だから、本当は『パーフェクト・クライム』での事故だったのに、それを麻理ちゃんに押し付けた。あなたを都合よく動かすために……」

「う、嘘だ嘘だっ！ デタラメだーっ、デタラメに決まってる！ だいたいなんでお前がそんなこと知ってる！ おかしいだろ！！」

それは、邪ではあったが……梨顔が梨顔として存在している理由そのものだった。

だからそれを否定されるのは、自分を否定されるも同じで、それはなんとしても阻止したかった。

言い負かされて自分自身を否定することだけは、したくなかったのだ。

どうだ、と言わんばかりの梨顔に、真琴はすぐに言葉を返さない。

梨顔は勝ちを確信したが……。

「だって、本当のあなた……蘭（らん）さんと、わたしは友達だったから」

「……っ！？」

寂寞漂う表情でそう言われ……梨顔はついに絶句した。

その言葉は目の前の少女が勝手に言っているだけのことであって、全てデタラメだと、嘘だと思えば済むことだった。

なのに、梨顔にはそれができない。

もうすでに、梨顔自身の心が、それを認めてしまっている。

梨顔の中に住む『パーフェクト・クライム』が、少女の言っていることは正しいと認めてしまっていたのだ。

ガラガラと崩れる、梨顔トランという偽りの自分。

後に残っていたのは完なる罪の欠片、ただそれだけ。

そして……。

梨顔がそれに気付いたその時こそが。

梨顔トランという虚実の存在の、あっけなくも悲しい、最期で……。

　　　　　　　　　　　　　（第１４５話につづく）