第141話、この心で生きていく自分が、光に照らされ広がっていく



それは、一瞬の出来事だった。

麻理の思考と感情が追いつくまもなく、瀬華は消えてしまった。


代わりに現れたのは、知己。

まったくの別人のはずなのに、どこか瀬華と似た印象を受ける、その青年。



麻理は、瀬華に変わって現れた彼が、本物の知己であることを知らない。

この夏に何度か会った、知己とは違うことを。

 なのに、麻理はどこか本能で、今まで会った知己は本物じゃなくて、今そこにいる知己が本物だってことを自覚していた。



一番の理由は、自身の心飛ばす能力により、面識がある故だろうが。


その向こうにいる、今までただ怖くて仕方がなかった梨顔すらも矮小に見えてしまう存在感。

何より圧倒的な、そんな知己を包むアジールの力。


世界が震え、軋むほど。

さらに、そばにいるだけで自らの力を奪われ、封じられてしまったかのような感覚がある。


瀬華はどこに行ったのか……どうしてここに知己がいるのか、聞きたいことはあったのに、麻理はその存在感にのまれ、何も言うことができない。

 



アジールの存在しない普段なら、対するものに安心感を与えてくれるような、そんな人物なんだろうと思う。


でも、今は違った。

何故なら知己は怒っていたからだ。

人は、こんなにも怒りを体現できるのかと思うくらいに。


 


「久しぶりだよ。……他人にこれほどまでの怒りを覚えるのは」


一見、怒っているようには感じられない、知己の静かな呟き。

なのにその一言だけで、空に亀裂が走った。

とばっちりは嫌だと、風が逃げ出し大地は怯え、泣き止まない。

 

そんな怒りをぶつけられれば。

心を占め圧迫するのは、恐怖という言葉だけでは表現が足りないのかもしれなかった。

 


「ぁ……」

 

この世で最も恐ろしいものを見たかのような。

先ほどまでとは180度違う、梨顔の表情。

 


「なんで……ナンデッ!……くっ!?……どうしテ知己がここにいる!? ……違う、違うんダっ! ……くそっ、なんだこれはっ!? ……ぅ、う、うわああああああアアアァァーッ!!」

 

言語中枢が狂ってしまったかのように、断末魔のごとき絶叫をあげ、ひどく混乱した様子で、あの梨顔が何をもかえりみず、逃げ出していく……。

 


途端に、夏の気配が戻り、現実の世界へと戻ってきたのが分かったが。

そんな梨顔の態度は、麻理の予想を遥かに超えていた。

恐れを凌駕した、何かがそこにはあった。

 


それは、知己も同じらしい。

現実世界に戻ったことで、先ほどまでの怒りが消えたように見える知己。


どこか呆然としているようにも見える知己に、麻理は溜まっていた感情を吐き出すように口を開いた。




「知己さん! 瀬華ちゃんは! 瀬華ちゃんはどこですか? 嘘ですよね? 瀬華ちゃんがっ……だって、さっきまでそこにいて、普通に話してっ……」



気付けばぼろぼろと涙をこぼしながら、叫ぶ麻理。

知己は、そんな麻理のほうへと振り向いたが、すぐには答えようとしなかった。


眉間に深く刻まれた苦渋が、しかし残酷な現実を伝えてくれる。

だが、やがて顔を上げ……知己は、しっかりと麻理の目を見据えて。



「姐さん、黒姫さんはここにいる。……すまない。本来なら、ずっと己の身体を貸していたかった。だけど、もう限界だった。姐さんの魂まで消させるわけには、いかなかったから」


そう、言った。

そして……手に持った薔薇の細工の美しい剣を、麻理に手渡す。



「持っていてくれ。姐さんを……頼む」

 


知己は、瀬華が『パーフェクト・クライム』に飲まれ、命を落としたことを事実として知っている。


何故なら知己は、その現場近くにいたからだ。

でも、瀬華がもうこの世にはいない、なんてことは認めてなかった。

肯定したくなかった。


瀬華の魂は、その剣の中に戻っただけだと。

彼女はこの世界から消えてなどいないのだと、そう言いたかった。

 


「瀬華ちゃん……」


だからそう呟く麻理に、知己はその剣を託した。

自分が持っているよりも、そのほうがいい気がしたから。

 



「己はあいつを追う。……姐さんのこと、守ってくれな」


知己の言葉に、ただこくりと頷く麻理。

 

だが、流れる涙は止まることはなく。

止めることのできない自分に歯がゆさを感じながら。

   

梨顔を追うために、駆け出す知己を見送るのだった……。






           ※      ※      ※





「凛ちゃん、凛ちゃんってば! どうしよう、どうすればいいの! 誰か、凛ちゃんを助けてっ!」

「……」


気がつくと、目の前には正咲の泣き顔があった。

凛に寄りかかるように、激しく泣きじゃくる正咲。

こんな時も変わらなくて、凛はちょっと笑みを浮かべる。



どうやら自分は、まだこの世界に留まっているらしい。

ぐしゃぐしゃの正咲の泣き顔の後ろに、迫り来る黒い太陽。

それで凛は、自分が正咲の膝に、仰向けに抱かれているのを知った。

  


「泣かないでください。もともと私は、生きてはいない、消えるさだめだったのですから」


凛は、そう言って正咲の涙を拭おうとするが。

その手の感覚も、ほかの部分の感覚も、もう残ってはいなかった。


もう、消えるのも……それほど先ではないのだろう。

その前に、凛は言っておかなければならないことがあった。

 


「正咲さん、最後に一つ、お願いがあるのですが」

「そんなっ、そんな言い方しないでよぅ!」


正咲だって分かっているのだ。

あの黒い太陽に突っ込んでいった凛が、ただではすまないことを。

凛の言葉はどこまでも現実で、そして重い。

 



「わたしは、正咲さんの、歌が、聞きたいです」

「……そ、それはっ」


その言葉は知らない第三者が聞けば、言葉通りの会話だったのだろう。

でも、凛は知っている。


正咲が歌うということが。

『正咲が自分を一人の人間として、自覚する』ということに。

 



この夏に思い出した、透影・ジョイスタシァ・正咲という本当の自分。


それは思い出してはいけないことでもあった。

認めてはいけないことでもあった。


何故ならそれは、あの子を……カナリを、否定することだったからだ。


自分は、カナリのファミリアだったはずなのに。

人ではない存在だったはずなのに。

記憶が、思い出が、友達が、家族が、それを否定する。

 

だからせめて、自分だけはあの子を否定しないと、そう思っていたのだ。



だけどそれは結局、逃げなのだろう。

ただ、自分が傷つき、自分が傷つけることになるのが嫌だっただけなのかもしれない。


彼女に、何もかも背負わせて、逃げている自分を認めるのが、嫌だった。

彼女は……正咲にとって生まれて一番の『わがまま』の結晶だったのだ。




「私はですね、正咲さん。遠い未来で、別の世界で、正咲さんの友達なんです。

同じバンドの、正咲さんがボーカル、私はパーカッション。私は、あなたが大好きだった。あなたの歌を聞くのが、大好きだったから」


そう言う凛の紅の瞳は、もうすでに正咲を見ていなかった。

どこか遠くに思いを馳せるかのように……そう呟き続ける。

 


「うん……わかったよ、凛ちゃん。その願い、叶えてあげる」


わがままは、もう、終わりにしなくちゃいけない。

正咲は、そう思った。

たぶんこうやって、『いい加減、わがままはよせよ』、なんて言ってくれる人が必要だったのかもしれない。


助ける理由がわからない、なんてどうして思えたのだろう。

こんなにも、自分を大好きでいてくれる人に。



凛の言う通りなのだ。

今いくら後悔したって、もうどうしようもないことは。


だから正咲は……歌を歌う。

今やもう、その身体が霞のようにおぼろげで。

今にも消えてしまいそうな、凛の願いを叶えるために。



  

「―――この心で生きていく世界に、明けることのない夜はない……。

この心の声をきっと、逃しはしない……

この闇を散らすように……光の道よ、疾れっ!

【歌唱具現】、フォース! 『ホーリーナイツ・アンブライト』ッ!! 」




 


それは……証明。


透影・ジョイスタシァ・正咲という一人の少女を、自らで認めるもの。


生まれ出た暗闇を切り裂く光の道は。

大地を疾り、大気を分かち……そして大空を穿つ。


そしていとも容易く、それでいて無慈悲なほど強く。

そこに浮かぶ太陽を切り裂いた。


明けることのない夜の世界ですら、例外ではなく。

さらに……その世界ごと、引き離された黒の怪物は。

正咲の歌が続く中、朝の光に照らされた夜闇のように、塵となって消えた。

 

まるで歌という感動に、打ちひしがれたかのように。





朧げになる視界の中、その様を見ていた凛は。

心の中で……最後にに残った心の中で呟く。

 


私の大好きな、一番大好きな歌い手は、やっぱり最高の歌い手だったと。


絶対無二の歌姫。

その歌は世界の破滅すら止めるのだろうと。

 



そして。

凛がこの世界から消えたのは、その瞬間。

正咲は、最後のお別れの言葉を交わすこともなく、ただ歌っていた。



凛の言う、凛の世界に届けとばかりに、歌い続けていた……。



             (第142話につづく)






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