第137話、あかつきの歌姫、怒りを込めてみゃんぴょうへ
一体、どれくらい走っただろうか。
正咲と凛は商店街モールを逆走し畦道を抜け、果てには公園へと続いていく坂道を上がっていく。
異世はどこまでも広く、終わりがないようにも見えた。
実際、若桜町くらいの広さはあるんじゃないかと正咲は思う。
若桜町とよく似た、しかし偽物の町。
正咲は、あと少しでいつもの公園に差し掛かろうかといったところで、手を繋いだままの凛に声をかけた。
「ねえ、凛ちゃん。どこまで行くの?」
「異世の終わりを目指します。そうしたら、この輪……フープを使って脱出するのです。あれと戦うよりは、そのほうが得策でしょう」
「あの怪物一体なんなの? 逃げなきゃいけないほど、強いんだ?」
正咲にはあれだけの力を持つ凛が、あの怪物の声を聞いただけで一転し、逃げの一手を打ったことが不思議だった。
だから思うままに正咲がそう問いかけると。
凛は走ったまま息一つ乱さず、それに答える。
「あれは、パームが所持している能力者用の武器の一つ、六花の銃に撃たれた被害者のなれの果てです。六花の銃の弾丸は、『パーフェクト・クライム』の欠片とも言われ、能力者でない常人ならば撃たれてから一時間あまりでその魂を食らわれ、死に至ります。残った身体は、『パーフェクト・クライム』の欠片の住処となり、ああしてパームの手駒、意思のない殺戮人形と化すのです」
「そ、そうなんだ。……って、ええっ。じゃああの怪物、もともとは人間だったってこと!? だ、だれなの?」
「確か若桜町旧家の人間で、名前は西沢だったと記憶しています」
知り合いだったらどうしよう、なんて一瞬恐怖にかられた正咲だったが。
出された名前は正咲にはあまり憶えのないものだった。
知り合いじゃないからよかったというのも現金な考えかもしれないが、ここはもう戦場なのだ。
そうやっていろいろなものを割り切っていかなければ、生き残る術はないと、
正咲は充分すぎるほどよく分かっていた。
「その人、強いの?」
「いえ、もともとは、能力レベルDにも満たない非戦闘員だったはずです」
「だったら、どうして?」
アジールの質量だけで見ても、A(シングルエー)は確実に凌駕しているだろう力を、あの怪物には感じた。
いや、二度目に現れたやつは、もっと上だったかもしれない。
「正咲さんも聞きましたよね、あれが言葉を発するのを。あれは、あの声こそ、『パーフェクト・クライム』の声だと言われています」
言われ、正咲は先ほど聞いたその声を思い出す。
男の人の、無理に作ったような裏声。
正咲は、それをどこかで一度聞いたことがある気がして……はっとなって顔をあげた。
「ジョイ、あの声聞いたことあるよ! 梨顔せんせーの声! 今は違うけど、ここに来たばっかのときに、あんな声だった!」
「それは、私も聞きました。パームのものたち、『パーフェクト・クライム』の器として選ばれた『代』のものたちは、そのことを『パーフェクト・クライム』が憑く、という表現をします。『パーフェクト・クライム』の憑いた能力者の力は、桁外れです。事実、マスターたちはなす術もなく敗北しました。まともに戦って、勝つ見込みは少ないでしょう」
だから一旦異世から脱出する、ということなのだろうか。
かに、相手を倒すのが目的ではないけれど、正咲は少し腑に落ちなかった。
「正直、誤算でした。あれはもともと『代』ではない……六花の銃で『パーフェクト・クライム』の欠片を植えつけられたまがいものだったはずなのに」
凛は、至極淡々と感情のこもらない声で、そう呟く。
でも、どこか……その言葉が本意ではないような、何か別のことを考えているかのような、そんな印象を受けるのだ。
と。
正咲がそんな事を考えていると。
遠い場所のはずなのに、どこか近くで氷が砕けるような音がした。
「来ます! 正咲さん、走って! 後もう少しです!」
言葉通り、走るスピードを上げながら駆ける凛の手には、片方に白い輪っか、
もう片方に薄赤い光をたたえるナイフがあった。
ナイフが……置いてきたはずのナイフがここにある。
その意味するところはなんなのか。
正咲が、それを理解すると同時に。
月と星に照らされた夜道に、いきなり影が差した。
「ゼッタイ、ニガサナイワ!」
それは、酷く重い妄執が込められた声だった。
その瞬間、背後に隕石でも落ちたかのような衝撃がくる。
「きゃぁっ!?」
正咲は激しく背中を押される形で、そのまま前のめりに倒れる。
そして、それを追い越すように白い輪っかが転がり……何か、見えない壁のようなものにぶつかって落ちた。
「正咲さん、そこが異世の終わりです! フープを早く!」
鋭く叫ぶ凛。
正咲が輪っかを掴み起き上がり振り返ると、五メートルと離れていないところに、四本の足を大地につけ、闇の翼はためかせる怪物の姿があった。
ついさっき、あれほどの斬戟を受けたはずなのに、その黒い皮膚にはまるで逆戻しでもしたかのように傷一つなく、それどころか全体的に大きくなっているようにも見える。
対して、目前にいて正咲を庇うようにして立つ凛は、体勢を低くし、ナイフを構えていたが、先ほどの一撃を受けたのだろう。
肩口が切り裂かれ、血を流している。
「凛ちゃん、だいじょうぶ!?」
「かすり傷です。それより、早く!」
「う、うんっ」
顔を向けないまま、さらに強くそう言われ、正咲は輪っかを両手に持ち、何もない空間に押し付ける。
すると、そこには確かに、何か壁のようなものが存在していて。
輪っかはぴたりとくっついて静止した。
「それから、どうすればいいの!」
「フープに正咲さんのカーヴの力を送ってください。フープの力が発動し、空間移動が可能になります!」
「分かった!」
正咲はすぐさま言われた通り、蛍光灯に電気を流すイメージで、フープに自分の力を送る。
すると、みるみるるうちにフープは大きくなり、その場に虚ろな空間を開けた。
白かった輪っかは、それとともに黒い色に変貌していく。
「ニガサナイ、ニガサナイ、ニガサナイッ!」
それに気付いた黒い怪物は、金属のかすれるような声で何度もそう叫び、伸び上がって輪っかに向かって駆け出す。
凛は、無言でその進路に立ち、ナイフを両手で持って、真正面からぶつかっていって。
そんな凛に対し黒の怪物は片足を上げ、黒い爪を無造作に振り下ろした。
ガキィッ!
再びぶつかり、拮抗し会う二つの刃。
「正咲さん、さぁ、今のうちに通ってください!」
「う、うんっ!」
正咲は言われた通り、すぐさま暗い虚ろの中へ飛び込む。
その瞬間、吸い込まれるかのように引き寄せられ浮かび上がり、正咲が驚いて足をばたつかせていると、やがてその足が大地を踏みしめた。
両足でしっかり体勢を整え振り返ると。
まるで丸鏡のように、さっきまでいた世界が見える。
「凛ちゃん、通ったよ! 凛ちゃんも早く!」
正咲はその中に凛の背を見つけて、そう叫ぶ。
その声に、凛は振り向き……何も言わないままゆっくりと首を振り、輪っかに手を触れる。
「凛ちゃん?」
凛が何をしたいのか、分からなくて戸惑う正咲。
だが、その輪っかがどんどんと小さくなっていくのを見て。
そこで初めて正咲は、凛が何をしているのかを理解した。
凛は初めから、正咲だけを脱出させるつもりだったのだ。
何故なら凛は正咲を助けるのが目的だと、そう言っていたから。
「凛ちゃん!」
正咲は駆け寄り叫ぶが、それはもう正咲が通るには小さすぎ、その声すらも届いていないようだった。
凛は、もう正咲のほうを見ようとはしない。
初めから自分だけを犠牲にするつもりで、正咲を助けることができればもう他はどうでもいい。
小さな背中は何も語らず、しかしそのことを如実に物語っていた。
「なんで?」
正咲にはわからなかった。
どうして自分のために、そこまでできるのかが。
その分からない気持ちは、どんどん膨れ上がり……やがて、別のものに変わる。
それは、怒りだった。
結局ただ何もしていない自分のふがいなさ。
そして、自分を騙し、許可もなしに、理由も言わずに勝手なことをしている凛への。
「そんな、そんなの……ゆるさないんだからぁーっ!」
叫んだ瞬間、自分の中でなにかが切れるのが正咲はわかった。
気付けば大声をあげたまま、輪っかに向かって正咲は突進していた。
その輪っかが狭すぎて通れないのならこっちが小さくなればいい。
そう思いながら……。
(第138話につづく)
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