第133話、忘れ去られたものたちの終の火





はっとなって顔をあげる正咲。


それまで微塵も感じられなかったすさまじい質量のアジールが、吹き抜ける突風となって、正咲の髪を激しく揺らす。


目の前には振り上げられた、獰猛に黒光りする五本の爪。


間に合わない、そう思った。

逃げることも構えることも、すでに手遅れだと。

何もできずに、ただきつく目を閉じるしかなかった。

それでも、その爪が振り下ろされる光景が脳裏に焼きついて……。



その瞬間、すぐ近くで金属と金属がぶつかり合い、摩擦の熱を元に火花を散らすような音がした。

あまりの衝撃音に、正咲は思わず身体を縮こませたが。

自分の身体には痛みも何もないのが不思議だった。


それでも続く摩擦音に、正咲が恐る恐る目を開けると。

まず目に入ったのは人一人通れるくらいの大きさの、それまで黒かったはずの白い輪っかだった。


そしてその中には、小さな赤い靴……いや、そうではない。

そこには一人の少女が立っていて。

何倍もあろうかという怪物の爪を、たった一本のほのかに赤く光るナイフで受け止めていたのだ。




「【常者必衰】、ファースト! デモン・レイ!」



さらに、少女は力ある言葉でしかし静かにそう叫ぶと。

怪物のアジールを押し出す形で真紅のアジールを展開し、あっさりと均衡を崩した。

そのままの勢いでさらに一歩踏み込み、腕を伸び上げるようにして赤く輝くナイフを怪物の首筋に突き立てる。


何の抵抗もなく深々と柄の所まで突き刺さったナイフ。

それは、高熱を宿していた。

その温度はすさまじく、怪物の皮膚は見る見るうちに煮えたぎるマグマのように膨れ上がり、爆発四散した。



「ギイイイイイイッ!」


悲鳴のような咆哮をあげ、のた打ち回って赤い地面へ消えていく怪物。



「下手ですね、まったく」


つぶやく声は、まるでそこに感情などないと見せかけるかのように平坦で。


アジールの風に舞う薄赤のおさげ髪が、どこか幻想めいていて美しかった。



正咲は瞬きするほどの一瞬で起きた出来事に、ただ呆然とそんな彼女を見ていて……。






           ※      ※      ※





止まらない。

どす黒くて、叫びだしたいような、そんな衝動が。

賢の心の中にどんどん溢れてくる。


早く……早くあいつを、この世から消してしまわなければならない。

そう思った。



が、ここで自らの力を暴走させるわけには行かない。

沸騰しやすいながらも、どこか度をわきまえているところのある賢は。

自力で我に返る。

ぎりっと、唇を噛み切るくらいに噛み締め、撃たれた奈緒子に駆け寄る。



「……くっ」


撃たれたが、どこも出血したり傷を負ったりしている様子はない。

だが、今撃った弾丸は『パーフェクト・クライム』の欠片なのだ。

下手をすれば、七瀬は内から『パーフェクト・クライム』に食らわれ、命を落としてしまうのかもしれなかった。




「ひひひ。さあ、授業の時間だ。やさしいやさしい青春小僧の母袋クン。……そいつを殺して、ここを出ることができるかな? 無理だよなぁ、お前には。こまったなぁ、こんなところでもたもたしてると、みんなぶっ殺されちまうってのに」

「ざけんな、てめぇっ!」


最初からそのために、そんなことのために七瀬はこんなめにあったのかと。

持て余す感情のままに、賢は、倒れたまま狂ったように笑う梨顔の胸倉をつかみあげる。


逆の手には……自らのカーヴの力があった。

触れたものを、世界から抹消する力が。



賢はそれを梨顔にぶつけようとして……なのに、できなかった。

ここまでされて動かない手が、情けなかった。




「お前はオレには勝てねぇよ!」


その状態のまま、梨顔はにやりと笑う。


「このっ!」


言われ、賢はもう一度腕を振り上げるが。



まるで、何かの巨大な心臓音のようなものが辺りに木霊する。

思わず振り向いた賢に向かって、迫り来るのは、残滓を残す黒い何かだった。



「……っ!」


それを認識する間もなく。

賢は激しく打たれ、切り裂かれ、ごろごろと転がっていく……。



「あはははは! 何故なら相手はオレじゃないからだ! 化け物は化け物同士、殺し合いでもしてればいいんだよっ! あーはっはっはっ!」


笑い声だけを残し、それから霞のように消えていく梨顔。


「て、てめえっ……待つとねっ!」


賢は声を振り絞って叫び、立ち上がるがそんな梨顔の姿はもうなかった。

変わりに答えたのは、生まれてこの方、初めて聞くような咆哮だった。



「くそっ……」


賢は、荒い息を吐きながら、改めて目の前の人物を見やる。

いや、それはもう、人の姿をなしていなかった。


全身を覆う、闇色の毛皮。

それは、溢れ出す『パーフェクト・クライム』の瘴気だろうか。


その大きさは、賢の三倍はくだらない。

かろうじて見える顔には、ねじれた二本の角。

その四肢には、鋭く尖って長い爪が生えている。


そして……賢を最も驚かせたのは。

漆黒に燃え盛る、一対の翼だった。



それは、まゆの背中についていたものと酷似しているように見える。

だが、あれはもともとまゆにあったものだ。

『パーフェクト・クライム』に対せし一番目の救世主は、その背に翼を宿していたのだ。

それは元来白い色をしていて、『パーフェクト・クライム』の力を取り込み、消し去ることで黒に変わる。


だがこの翼は、それとは根本そのものが違うのだろう。



(まるで、悪魔とね)


見たこともあったこともないが、賢はそう思った。

そして、おそらくこの姿こそ、『パーフェクト・クライム』そのものではないのかと。


 

「……」

「……」

 


気づけば二人は。

後一歩動けば相手の間合いに入れる位置で、向き合っていた。


視線が交錯する。

賢は、そこにわずかに光るものを見た気がして……。

 


どうすればいい?

本気で七瀬に力をふるえるのか?


無理に決まっている。

あの梨顔でさえ、無理だったのだ。


なら、どうする?

このままここにいて、いいのか?

七瀬が襲い掛かってきて、それをただ受け入れるのか?

ばらばらになった、麻理、瀬華、正咲はどうなる?

マチカたちだって心配だ。


何より、七瀬をこのままにしておいていいのか?


考え、悩み、混乱する。

落ち着かなくては。

冷静に考えなければならなかった。

 

どうする?

どうすればいい? こんな時は……。


 

それは、ほんのわずかな間の、自分自身との会話だった。

 

賢は、大きく息を吐き。

そしてその答えを、口にする。



「僕は……覚悟できているなんて言いながら、それは口だけだったのかもしれんたい」


視線をそらさず、静かに呟く賢。

変わり果てた七瀬は……何も答えない。

 


「覚悟しようと思うんだ。七瀬のために、僕自身のために……」



静かに……秘めたる意志を持って、賢は相手の間合いに足を踏み入れた。


震える七瀬。

おそらく、自由の利かない身体と必死に戦っているのだろう。

 

七瀬は、賢に助けを求めるような言葉は一言も発しなかった。

撃たれる間際まで、自分のことより賢のことを気遣っていたようだった。


強い子だと、賢は思う。


そう、みんな強い。

自分よりはよっぽどに。

 



「今、助けるとね」


だから賢は、そう言って。

闇よりもなお暗い、おそらく『パーフェクト・クライム』の闇にも劣らない黒い円を、七瀬の頭上に生み出す。



賢は、その黒い円を無造作に振り下ろしていく。

七瀬を、その黒い円の中に通すみたいに。


一見すると。

到底無理な大きさにも見えたが。



触れるか触れないかの、その瞬間。

七瀬は、賢の言葉に答えることもなく。



その世界から、姿を消した……。




              (第134話につづく)






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