第129話、あかしあの少女、回避した死の先の世界を臨む
賢が、危険を知らせるように叫んだ時。
麻理は咄嗟に持っていた、瀬華が『法久』と呼んでいた青くて丸いぬいぐるみを抱きしめていた。
瀬華からの大切な預かりものだから落とさないように、そう思って。
「よかった……うまくいったみたいね」
すると、すぐそばからそんな瀬華の、安堵した声がかかる。
麻理が顔を上げると、細長いサックを両手に抱えて持った瀬華の姿がそこにあった。
「瀬華ちゃん! よかったぁ。賢ちゃんと、正咲ちゃんは?」
ばらばらにされると、そう聞いていたから不安は少なからずあった麻理だったが。
目の前に瀬華の無事な姿を確認し、麻理は急ぎ駆け寄ってそう問いかける。
だが、それまで笑顔すら浮かべていた瀬華は、顔を俯かせて。
「……ごめん。とっさのことだったから、麻理と離れないようにするのが、精一杯だったの」
そう言って、片手に掴んでいた細い鎖のようなものを持ち上げてみせる。
それはよくよく見ると、青いぬいぐるみの背中のところに繋がっており、同時に黒いサックに巻きつくような感じになっていた。
離れないようにするのが精一杯だったとは、つまりはそう言うことなのだろう。
あの僅かな時間で、いつの間に繋げたのかは麻理には分からなかったが。
「じゃあ、賢ちゃんと正咲ちゃんは?」
「確認したわけじゃないから、絶対とは言えないけど……たぶん、それぞればらばらに別の異世に閉じ込められてるんだと思う」
「大丈夫かな、二人とも」
「心配ではあるけど……」
大丈夫だと即答できない時点で、二人が相当な状況に追い込まれているだろうことは予想できる。
「瀬華ちゃん、早く二人を助けに行かなくちゃっ」
だが、そう言ってみたものの、カーヴ能力者同士の戦い、あるいは異世のことを、麻理はほとんど知らない。
何しろ、アサトとして人の中に棲みながらも、自らのカーヴ能力名すらも知らなかったのだ。
もどかしくて、気ばかり逸ってしまう。
と、そんな麻理の様子を見た瀬華は逆に落ち着いたのか。
苦笑浮かべつつ、それに答える。
「ほんとは、麻理を助けるのが第一なんだけどね。カーヴ能力者が絡んできた以上、そうも行かないか。……うん、まずはこの異世の終わりに向かおっか。ここから出ることが先決だし」
「おわり……おわりに向かうと、何かあるの?」
二人は言葉を交わしあいながら一緒になって駆け出す。
「うん、ここが創られた世界である以上、現実の世界との境があるはずだから。
それに……」
瀬華がその言葉の続きを発しようとした、その瞬間。
それを遮るかのように、答えを示すかのように。
目の前の坂道が地響きを立てて盛り上がった。
「わわっ!?」
「……来たわ!」
思わず立ち止まる二人を前に、まるで空気を吹き込まれて膨らむかのごとく、大地が行く手を阻む。
どうやら、何かが地面を下から突き上げているらしい。
その、通常の世界にはありえない光景に、息をのみ見やっていると。
やがて元々あった地面にひびが、亀裂が入り、その下から突き上げている何か……それは、赤黒い風船のような、粘土細工のような塊だった……が、姿を現す。
さらに引き裂くような音が続き、その赤黒いものの全貌が分かるようになる。
それは、最初……人一人は入ってしまいそうな卵形をしていたが、脈打つように振動し、蠢きながら縮みだし、その色を失っていく。
変わりに現れたのは人の肌。
服……髪の色。
気づけば……そこには一人の男が立っていた。
麻理には見覚えのない、細面の男。
ゆっくりと開かれるその瞳は、優しげな色を湛えていた。
予想していたイメージとかけ離れた人物に、麻理は思わず首をかしげるが……しかし、瀬華にとってはそうでないようだった。
「あ……」
声を失い、その顔は白く見えるほどに青ざめている。
まさしく、信じられないものを目の当たりにしたかのように。
その、瀬華のあまりの変わりように、戸惑いを隠せない麻理。
いったい、この人は誰なんだろう?
麻理はそう思いながら、その人物を見つめていると。
まるで場と状況にそぐわない笑顔と口調で、その男は口を開いた。
「はじめまして、かな。アサト……いや、竹内麻理さん。それから、久しぶりだね、瀬華。ずいぶんと印象が違うから、すぐには分からなかったよ」
「え? 瀬華ちゃん、知り合い?」
「……っ」
そう言われ、麻理は男と瀬華を交互に見やるが、瀬華はまるで目の前にいる人物を否定するかのように、いやいやと首を振るばかりで答えない。
それを見た男性は仕方ないなぁ、とでも言いたげに苦笑して。
「ああ、自己紹介しなくちゃね。俺は塩崎克葉(しおざき・かつは)。瀬華とは、『コーデリア』って言うバンドで活動していた仲間だったんだ」
そう言った。
自然な態度とその言葉。
少なくとも麻理には、目の前の男性が本当のことを言っているように思えた。
「……うそよ。そんなはずない! どうして!? だって、かっちゃんは!」
だが、何かに怯えるかのようにそう叫ぶ瀬華には、ひどい動揺が見て取れた。
瀬華の、尋常じゃない相手への態度。
麻理はその意味を考えようとして。
「そんなはずないってことはないだろう? 瀬華だってそこにいるんだから」
「……っ!」
何気ない風にも見える、男性……克葉の言葉に、瀬華の表情が凍った。
それからガタガタと震えだし、今にも泣きそうな、恐怖に駆られた表情で俯いてしまった。
克葉の言葉に、どんな意味が含まれているのか。
瀬華がどうしてそんなにも怯えているのかはわからない。
けれど、理由はどうあれ、瀬華にそんな表情をさせたことが麻理には許せなかった。
瀬華を庇うようにして間に立ち、麻理は眦を決して叫んだ。
「瀬華ちゃんをいじめないで!」
「はは。いや、悪い。そんなつもりじゃなかったんだ。……そうか、君は、知らないんだね。」
「何をですかっ」
「知りたい? 知りたいんなら、話は簡単だ」
「……っ!?」
すると、それまで温厚ですらあった克葉の視線が凍えた。
ゾクリ、と全身に駆け巡るのは冷気。
いや、視線だけではない。
今まで一見変わらなかった夏の風景が、怜悧な白へと変貌していた。
「……君が、死の先を望んでみればわかるさ」
瞬間、ごく近くで聞こえる克葉のささやき。
それもそのはず、その一瞬で、克葉は麻理の目前まで迫っていたからだ。
振り上げられた手には、鋭く、幾重にも重なり尖った氷塊。
見た目以上に……あれを受ければやすやすと命を奪われるだろう力が、それには込められているだろうことがわかった。
だが、麻理は、カーヴ能力者同士の戦いはこれが初めてだった。
身を守るすべも、戦うすべも知らないのだ。
だから。
迫りくる氷塊に対し、麻理はただ身をすくませることしかできなくて……。
(第130話につづく)
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