第88話、執刀医と患者の語られぬ関係
それからしばらくして。
哲は一人、私有地の入り口……であるまるで城門のようなアーチのある場所へとやってきていた。
今頃、勇は目の前の『城』と呼ばれるほど大きな敷地の裏手に回っているところだろうが……勇が何かを見つけるまでくらいは時間を稼ごうと、それでも哲はおずおずとした態度二割増しで二人の元へと近づく。
「まだ何か用なの?」
許可など下りなかったでしょう? とでも言わんばかりに。
初めに声をかけてきたのは、ミドルボブの橙の髪と、燃えるような薄緑の瞳をしたスーツの女性、近沢雅だった。
「えっと、そのう……指のほうは、大丈夫ですか?」
対する哲はいきなり本題を避けたのか、そう言う雅に会釈だけをすると。
その隣にいる大きめの白衣を着た、表情の乏しい紫紺の瞳をした藍色のショートカット女性……露崎千夏に声をかける。
「特に問題はありませんが。まさかそれを憂いて戻ってきたわけではないのでしょう?」
哲は気弱そうながらその視線を外すことなく千夏を見つめていたが。
千夏はそんな哲と視線を合わせることなく、冷たいと思える声色で、それでも真意を問うように言葉を返した。
「駄目ですか? 心配しては。かなりの大怪我だったと思うんですけど」
「一体、何が言いたい……いえ、言わせたいのです?」
外さぬ視線のその先、千夏の指先には巻いていたハンカチどころか切り傷一つ残っていない。
それを分かっていて……哲がそう言った事に気づいて。
千夏はその言葉に険を含ませ、そこで初めて哲をその細やかな視線で見据えた。
「いえ……その、大丈夫だったのならいいんです」
「……っ」
すると哲は、自分を見てくれたことについて喜びを表すかのように。
まるでそれが目的であったかのようにさわやかに微笑んでそう言う。
その気持ちに嘘はないのだろう。
もどかしげに口ごもる千夏を見て、雅は何だか少し様子が変だなと思っていた。
先ほどの怪我は千夏本人が、自らの能力で治したものだ。
だから相手……哲に対しての言葉も、そのことをそのまま告げればすむ話なのである。
なのに、そのありきたりな哲の言葉に対して、千夏は明らかに動揺……狼狽していたのだ。
クールで頭の切れる、油断も隙も無いと言うイメージがずっと定着していた相棒の普通でない反応。
その相棒のブレは、例えるなら仕事場を身内に見られた時のリアクションだろうか。
「で? 上に掛け合ってみたんでしょう。当然駄目だっただろうとは思うけど」
ひょっとして二人は知り合いか何かなわけ?
雅は内心そんな爆弾を投下してみようかとも思ったが。
それは、そもそも雅自身の役目に関わることではないから。
寸前の所でそれを飲み込むと、本来の役目である言葉を口にした。
それに傷について聞いてきた哲の言葉は、雅には本題を切り出す前の前置きだろうと思っていたのもある。
だから、まどろっこしいことは抜きにしようとばかりに、相手に本題を呈してあげたわけなのだが。
「それがですね、学園長室にはだれもいらっしゃらなかったんです。もう随分部屋を開けているようでしたけど……」
「……」
思いもよらないその言葉を返され、雅は少なからず動揺した。
ここで動揺を見せれば学園長がいないことを知らなかったと言っているようなものだ。
雅はその動揺を外に出さないように、必死で表情を変わらないように努める。
「学園長がいないですって、どういうことです?」
だが、やはり平常ではないらしく。
あからさまに眦をあげてそう呟く千夏に、雅は頭を抱えるしかなかった。
これでは、いつもと立場が逆じゃないかと。
「あなたがたも知らなかったんですね。それじゃあ、学園長が……春恵さんがどこかに行くあてがあったのか、ご存知ありませんか?」
「……」
見上げるようにそう言われ、そこでようやく千夏は自分のミスに気づいたらしい。
うまく手玉に取られたかのように言葉を失っている千夏を見て、雅は深い溜息を吐きつつ、仕方ないとばかりにその問いに答えることにした。
「悪いけど、学園の中では私たちあんまり顔のきくほうじゃなくてね。学園長のスケジュールなんてそもそも把握していないのよ」
「そうですか……。心配です。何もなければいいんですけど」
一応正直に雅がそう答えると。
残念と言うよりは本当に学園長を心配している面持ちで哲は俯く。
事実知らないとはいえもうちょっと言い方があったかと、雅も気まずい気持ちでいると。
それをフォローするかのように、千夏が口を開いた。
「ご自宅の方へは伺いましたか? この頃あまり体調が優れないと聞いていたので、そちらにいらっしゃる可能性が高いと思われますが」
「うわっ。千夏がお節介焼いてるよ」
別に彼らが敵、というわけでもないが。
その情報は役割を遂行することにおいて、教えて得とは言えないだろう。
本当に学園長を心配している風であったから、千夏の気持ちも分からなくはないが。
思わず呻くように雅がそう言うと、それを聞いた哲は控えめに、それでもどことなく嬉しそうに笑みをこぼした。
「そうですか。教えていただいてありがとうございます。今、仲間が向かってますので連絡を待つことにしますね。それで、あの……今更かとは思うのですが、ここはやっぱり通してもらえないですか?」
「だから、言ったでしょ。通りたくても通れないって」
そして、調子に乗ったのか。
そんな事を聞いてくる哲に、雅はぴしゃりとそう言い放つ。
雅の立つこのアーチの向こう……リアによって創られた異世は、本人の許可がない限り生き物が通ることはできない。
現に、雅も千夏もここを通過することはままならなくて。
食料や生活雑貨を手渡したり、話し相手になることくらいしかできることはないのである。
入れるものなら自分でとっくに入っている。
そんな気持ちも雅の言葉に含まれていたが。
「……駄目です。ここを通ることは、許可しません」
続くようにそう言った千夏の言葉に、雅はついにはぎょっとなった。
それはまるで目の前の彼が、あのウサギのような少女のように、ここに入る資格を持っている……そう言っているようにも聞こえたからだ。
「そうですか。それじゃ仕方ないですよね。それじゃ、失礼しました」
だが、そう言われてすぐに折れたのは哲だった。
そう言ってぺこりと一礼し、まるでそこから逃げるように余韻もなく立ち去ってしまう。
「……」
「ち、ちょっと。千夏っ、どこ行く気!? まさかここを離れるなんて言うんじゃないでしょうねっ」
そして、まるでそれを追いかけるかのように。
ふらりと歩みを進めようとする千夏の腕を、雅は慌てて掴み静止させた。
すると、千夏ははっと我に返ったかのように。
それでいて何とも複雑な表情をし、元の立ち居地へと戻る。
「まずいですね。これじゃあ、何のために実演してみせたのでしょう……」
それから、悔しそうにそう言って。
もう怪我すら残っていない右手を握り締めた。
「どういうこと? まさか、彼にまで資格があるっていうの? というか、そもそもあんたたち、知り合いか何か?」
雅は同じように定位置に戻り、そう問いかけながら。
いつもと比べて明らかにおかしい千夏の言葉に含まれる意味を考えてみる。
それは、つまりこう言う事なのだろう。
慎之介……あるいは真澄が境界に触れようとした時。
止めたのは雅だったが。
触れればどうなるか、実演して見せたのは、必ずしも彼らに危険を知らせるためだけではなく。
哲が通ろうとするのを抑止するためだったのだと。
だがしかし。
千夏はそんな雅の問いに、二重の意味合いも持って首を振った。
「知らないわ。……『彼のこと』は。ただ、これで彼に無茶をするきっかけを与えてしまったかもしれない。杞憂であればいいのだけど。つくづく、この役目が向いていないこと、実感したわ」
「……」
そう言って一つ息を吐いて、瞳を閉じる千夏。
雅には、千夏の言っていること全てを理解することはできなかった。
千夏は時折こういった曖昧な言葉を口にするのだが。
それでも少なくとも。
知らないという言葉には嘘があると、雅は感じていて……。
(第89話につづく)
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