第78話、夜の帳に舞う、無慈悲な紅い蝶
そして、知己たちがそんな自分たちの世界を作り始め。
法久が稲葉を『喜望』に入れるための手続きやらなにやらで、忙しくしている頃。
ちくまはふと思い出したように、カナリのほうに向き直った。
「……な、何か用?」
「うん、ほら。さっき後でって言ってたことなんだけど」
「っ!?」
カナリはそう言われて後回しにしている事柄というものを思い出し、無意識にもずさささ! と後退る。
「って、何で逃げるの?」
「そ、そんなこと言われたって……こ、こんなとこで? 人もたくさんいるのに!」
テンパったままカナリがそう言うと。
ちくまは、そっかぁと何かを理解したらしく、ぽんと手を打つ。
「恥ずかしいのはわかるけどさ、なんていうか今更じゃないの? それに、僕だけで治せるものなのかも微妙だし」
「今更!? ……治せる?」
気づけばだんだんとかみ合わなくなっていく、二人の会話。
ここまでくれば、自分が何か勘違いしていると気づきそうなものだが。
あいにくその時はまだ、カナリはそれに気づくことはなかった。
(治せるってなんのことよ。心の傷? って、何をバカ言ってんのよ!?)
カナリはますます錯乱の勢いを増し、ついには足を止める。
ちくまはカナリが立ち止まったのをいいことに、すっと近寄って。
気づけばベストポジションを取っているのがカナリには分かった。
(って、ぜんぜんベストじゃないわよっ! ちょ、ちょっとーーっ!?)
そして終いには心中ではそう叫びつつもなすがままになってしまうカナリ。
至極自然な動作でカナリの長い黒髪にちくまの手が添えられて。
成り行き任せでカナリは瞳をとじて……。
「……うわ~。すごくチリチリになってるねー」
ごく至近距離で、ちくまのそんな間抜けとも言えなくもない声が、した。
「ち、ちりちり……?」
「うん。ほら、僕覚えてなくて悪いんだけどさ、僕の炎の力でカナリさんの髪焦がしちゃったでしょ? なんか、これが天然パーマって言うの? そんな感じになってる」
「……はい?」
カナリは、ちくまの言っていることをすぐに把握できずに、瞳を開けて。
それこそこれからですよ! と言わんばかりの至近距離にびっくりして、慌てて離れようとするが。
そこでちくまが頭をおさえていたものだから堪らない。
「わわぁっ!?」
ちくまの慌てたような声とともに、至近距離だったものがゼロ距離になって。
ごごしゅぅっ!
「……~っ!?」
「うぎゅっ!?」
実に様々な音を立てて、二人はクラッシュした。
「ぐむむぅっ」
ちくまは、自分で自爆した時よりも痛そうにもがいている。
「……」
一方のカナリは、痛みとともに感じたありえない感触とありえないスポットの接触に、両手で顔を押さえるようにしてうずくまっていた。
「いーたーいーっ……って、カナリさん? ごめん、大丈夫?」
ぶつかったおでこの辺りから広がるように赤くなっているカナリを見て、ちくまは慌てて近付き声をかける。
が……。
「………殺ス」
「え゛?」
帰ってきた答えは、地の底から這い出るようなそんな声で。
「どこもかしこも平和が憎いでやんすねえー」
「激しく同意でありますよぅ」
熟れたリンゴのような顔をして、大地の裂け目から光の刃を生み出すかナリを見ないようにしつつ。
法久と稲葉は、しみじみとそうぼやくのであった……。
※ ※ ※
それから。
すっかり桜咲の中央公園にも夜の帳が訪れて。
時折冷たいものの混じる強い風が吹く中、『喜望』持ちの車を手配していた知己たちは、地元で家の近い美弥たちを残し、その場を発とうとしていた。
「今日くらいみんなで泊まっていけばいいのに……」
案の定寂しそうな顔を隠すこともなく、そう言ったのは美弥。
「そうしたいのはやまやまだけどな、それができるんなら打ち上げだって出てるよ。なんならそっちに顔出してみればどうだ? 美弥ならいても全然OKだろ」
「ううん。いいのだ」
知己がいなければ打ち上げに参加しても意味がないから。
美弥はそう言わんばかりに、それでも笑顔を作ってみせる。
「今度は、いつ会えるのだ?」
「いつでもって言いたいことだけど。まあ、遅くてもBBQパーティの日だな」
「そっか、わかったのだ。じゃあ、信じて待ってるから」
「ああ、信じてくれていいぞ」
―――その日まで絶対無事でいる。だから安心して待っていろ。
そんな意味を込めて知己は信じる、と口にした。
別に言わなくても初めから信じているわけなのだが。
それはそれ、言葉に表すことに意義があることだってあるのだ。
二人は、そのまま互いを包むように抱きしめあい……そして離れる。
時間にしてみたら数十秒、といったところだろうか。
それから手を振りあって、知己が他のメンバーの待つ車に戻ってきたのは、皆が思っているよりもだいぶ早い時間だった。
「もういいでやんすか?」
「ああ、悪いな」
助手席に陣取っている法久の言葉に知己はただそう頷いて、運転席につく。
これ以上惜しんでいると、お互いに相手が側にいない時にマイナスになるから。
とは言わなくても法久は分かっているんだろう。
知己は、そのことにちょっと苦笑を漏らしつつ。
行ってくるのサインを送るように軽くクラクションを鳴らす。
そして、ヘッドライトをつけると、知己はおもむろに紺色のワンボックスカーを、走らせていくのだった……。
そして。
新たな物語の幕を開ける事件が起こったのは。
その月明かり指す車内でのことだった。
遠慮もあって稲葉がひとり一番後ろの席に座っていると。
ふと知己の運転する暖色系の灰色のシート、背もたれにかけてある剣……黒姫の剣が明滅するように光っているのに気づく。
(何ですかね?)
稲葉は首を傾げてそう思いはしたが、知己は運転に夢中で気づいている様子もない(あるいは気にしてない)し、法久は先程から抜け殻状態で、真ん中の席にいるカナリとちくまの二人は、流石に疲れた(元はと言えば稲葉のせいではあるが)らしく、何故かたくさんいるぬいぐるみたちに追いやられるように眠りについていたため、とりたてて今聞くこともないか、なんて思っていたのだが。
その光が、危険が近づいていることを知らせるシグナルであるということに、誰が気づけただろう?
その時はまだ持ち主である知己ですら、剣にそんな力があると知らなかったのだ。
その危険が稲葉自身に近づいていることなど、稲葉には分かるはずもなくて。
稲葉にそれが起こったのは唐突だった。
さっきまで敵だった自分がいるのにも関わらず、平和そうに眠っている二人に感化されて、稲葉自身にも眠気が襲い……軽く瞳を閉じた時だ。
閉じられた赤黒い視界の中に闇の粉を撒いて舞う、一匹の蝶が見える。
「……?」
稲葉はそれを訝しげに思いながらも、そのまま何をするでもなく見ていて。
その小さな紅い蝶が、どこかで見たことのあるものであることと。
それがだんだん近づいて尚且つ増えはじめているのに気づいてはっとなった。
それは、パームに入ることを約束した時。
あの波の能力、【落涙奈落】をバタフライに授かった時に見た、いわばカーヴ能力の素みたいなもので。
どんどん、どんどんと増殖し始めるそれを見て、稲葉はとうとう恐ろしくなって声を上げた。
「……ち、蝶がぁーっ!?」
「っ!?」
「んあっ。な、何!?」
その声に何事かとがばっと起きあがるカナリとちくま。
「どうしたっ、 稲葉さん!?」
その後すぐ、伺うように知己が問いかけるが。
しかし、稲葉にはその声が届いていなかった。
何故ならば、まるで叫んだことがスイッチであったかのように。
稲葉の網膜の裏にある闇の中で、紅の蝶がグロテスクとも言える繁殖を続けていたからだ。
「ひぃぃーっ!?」
稲葉はついに精神(こころ)が耐えきれなくなり、それを自らの能力で消し去ってやろうと、錯乱しつつアジールを展開する。
それを見た知己は本能からの警告で、まずい、と感じた。
「やめろ、稲葉さん! 異世を開いちゃ駄目だっ!」
だから知己はそう叫んで慌てて車を路肩に止めたが。
その時にはもう、全てが手遅れだった。
稲葉は既に自らの異世を創り出し、現実の世界から剥離していて。
バスンッ!!
ここではないどこか違う世界から木霊する……ガラス細工のようなものが破砕する音。
「くそおおぉぉっ! なんでだよっ!!」
知己は食いしばる歯から漏れ出るように悔しげな息を吐き、ハンドルに怒りをぶつける。
「な、何が起こってるの?」
「まさか、口封じ……?」
呆然と呟くちくまとカナリの目の前には、完全に落とされたとわかる、昏睡状態でシートにだらりともたれかかる稲葉がいた。
「ただいま帰ったで……ん? 何か……っ!?」
そして軽い調子で戻ってきた法久は。
止まっている車とうなだれる知己、自失したままのちくまとカナリを見て、ただならぬ何かが起こったのだと把握する。
法久はおそるおそる飛び上がり、ちくまたちの視線の先。
稲葉のいる方まで行きかけて絶句した。
「……なんででやんす? なんででやんすか! これがパームのやりかたでやんすかっ!」
法久の叫びが空しく木霊する。
それは、皮肉にも先程知己が峯村にして見せたのと同じもので。
それの意味することは、言葉で簡単に表せるほど楽観的なものではなかった。
何故ならそれは、知己と並ぶような力を持っている人物がパームにいるということだからだ。
「バタフライ……っ!!」
知己は苦々しげにその名を口にする。
その名を持つものが、稲葉を落とした人物であると。
知己には不思議なほど確信があったのだ。
だから知己は。
その名をしかと胸に刻みつけ、いきり立つように車を発進させる。
そしてそのままUターンして。
急遽目的地を『喜望』の本部から、金箱病院へと変更するのだった……。
「………」
一方カナリは、怒りを再燃させ、たぎらせて、それでも受け止めきれないでいる知己や法久を見ながら。
自分を抱きしめるように肩に両腕を回し、必死に生まれくる恐怖のようなものを押し込めていた。
一向に震えが止まらない。
それは、稲葉が最期に言った『蝶』というフレーズと。
いつしか聞いた「『ハートオブゴールド』に魅入られたものには必ず死が訪れる」という言葉のせいだった。
カナリは、自分の中にある嫌な想像をひた隠すように、恐怖を外に出さずに耐えようとする。
基本的に人に弱みを見せたがらないカナリのその行動に、隣にいたちくまは何を思ったのだろう?
カナリは、ふと左手に柔らかく、暖かい感触を覚えて顔を上げた。
「……ちくま?」
カナリがびっくりしてその名を呼ぶと、ちくまはにっこりといたわるように微笑みを返してくれる。
「大丈夫。……大丈夫だよ」
「……うん」
一瞬、何が大丈夫なのよと返そうと思ったが。
そのぬくもりが何故だかとても心地よくて安心できて。
いつの間にか不安や恐怖が和らいでいたから。
カナリはただそう頷き、さらに両手で暖めるように手を握ってくるちくまの、するがままにさせていた。
心の中では、ありがとう、と呟きつつ。
そして気づけば、黒姫の剣の明滅は消えていて。
知己たちが、そのこと……黒姫の剣が動き始めていることに。
眠りから覚めようとしていることに気づくのは、もう少し後のことだった……。
(第79話につづく)
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