第48話、もふもふとうさぎと天使が作った大好物


「……も゙ふっ」


大きなゴールデンレトリバーは、まるで謝るように一声ないて、そっと真澄から離れる。


既に真澄には、ここから出ようという気力が消えかかっていた。


泣く事により、事実を認めてしまったから。

今更自分が出て行っても、何もかもが手遅れだという事に気づいてしまっていたのだ。


今まで自らに課していた泣かない誓いを破った今。

もう弱い自分にはそれをする価値はないと、そう思ってしまっていたのだ。


涙を流すことは、自分が弱い存在だということを証明するものだと真澄は思っていたから。



それはつまり。

自分が女であるということを認めることで。



そんな真澄には夢があった。

決して叶うことのない、そんな夢が。


それは、強い男になるということだ。

憧れた敏久のような、強い男に。


しかし、表面的にはずっとそう思ってても、心の奥底では違ったのかもしれなかった。


本当は、自分に自信がなかっただけなのだ。

いつも自分に向けられる、暖かい敏久の視線の意味をそのまま受け入れる自信が。



だからあの時。

何故敏久が自分だけを逃がしたのか。

本当は真澄は分かっていたのだ。

ただそれを認めたくなかっただけで。


最初は彼と肩を並べられる、背中を預けてもらえる強い男になりたかっただけだったのに。

気づけばいつからか、自分だけを見て欲しい、支えて欲しいと考える女(じぶん)がいて。


その涙は、そんな自分を改めて自覚する涙であり、それを悔しいと思う涙でもあった。



……と。

真澄がそんなことを考え、ただ白い天井を見ていた時だ。

扉の向こう側、壁で見えない反対側は廊下になっているのだろう。

その辺りから、ぴこぴこぴこと何かの鳴き声のような足音が聴こえてくる。


誰かがやって来たらしい。

泣けばどうとでもなるという考え方が嫌いだった真澄は、それをすぐに袖口で拭おうとして、思わず手を止めてしまった。


着ている服が、誰のかも知れない高そうな夜着だったっていうのもあったが。

真澄が顔をあげた視線の先に、まるでそれ自体が発光しているかのように白く輝く翼が、ひょっこりと顔を覗かせたからだ。


はたはたとせわしなく動くそれは、その翼がつくりものではないということと、その持ち主の人となりを表しているようで。


真澄が涙を拭うのも忘れてじっとそれを見やっていると。

やがて恐る恐るといった仕草で、その翼の持ち主が顔半分だけ姿を現した。



「あっ」


思わず声を上げる真澄。

そこで初めて、このどこかも分からない場所で最初に見たのが目の前にいる少女、

天使の少女であることを思い出した。


真澄はそのまま何を言うでもなく、その少女を見つめる。

頬にかかるふんわりと丸くカーブした杏色の髪と、不思議な色合いで真澄を見つめ返してくる薄桃色の瞳。

その、まるで瑞々しい苺のような澄んだ瞳にあいまって、幼さを残しつつも、儚いほどの美しさと気品さがその表情にはあり、生成り色のブラウスに包まれたその肢体は、空を舞うためなのか華奢そのもので。

一目見ただけで、大切に扱わなければたちまち壊れてしまうような感じがした。


この少女が自分を助けてくれたのだろうかと、真澄は考える。

だとするとこのぎこちない包帯も、サイズだけはぴったりな夜着も、彼女のものなのだろうか。

さらに真澄はそんなことを考えていると……。



「あややっ、だいじょぶですかっ!?」


どうやら地べたに倒れこむように座り込み、尚且つ泣いていた真澄にびっくりしたらしい。

たいそう慌てた様子で、おたおたしながら部屋に入ってくる。

その小さな身体と比べても遜色ない、おもちゃめいたちっちゃな翼は、ぱたぱたとざわめき、手にもっているらしいお盆の上にあるレンゲがかちゃりと跳ねた。


よくよく見るとお盆の上に乗っているのは、ミニサイズのお鍋のようだった。

何かを作ってきてくれたのだろうかなと思い立ち、真澄は何だか悪いなと言う気持ちになっていると。

それも束の間、がつっと同じくちいさな羽の生えたスリッパが、部屋と廊下の境にあるでっぱりに引っかかってしまったかのような音がして。



「あわわわわっ!?」


案の定バランスを失った天使の少女は、そのまま前のめりに転んでしまった。

さらに、計ったかのように真澄に向かって飛んでくるのはおぼんとレンゲ、そして鍋。



「よっ、ほっ……はっ!」


だが、真澄も伊達に目の前の状況を解説していたわけでもなかった。

サーカスのジャグラーも真っ青な手さばきで、お盆をキャッチ右手に掴み、アツアツの鍋を包帯の巻きすぎで鍋つかみ状態になっている左手でキャッチ、

そして最後に放物線を描いて飛んできたレンゲを、リフティングの要領でおぼんに不時着させたのだ。



「おぉーっ、すごいですっ!」

「……」


薄桃の澄んだ瞳を見開いて拍手をしてくるその少女を見て、真澄はその表情に照れをにじませる。


元々身軽で、こういった道芸が得意だったのが功を奏したらしい。

思わず一安心の息をついて、そのまま真澄は笑みすら浮かべてしまった。

気が付けば、ほんの直前まであんなにも気落ちしていたのが、嘘みたいに涙が引っ込んでいる。


たぶん、目の前に次々と起こる出来事が、衝撃的すぎたというのもあるだろう。

幸せと笑顔を運んできてくれるのが天使だと、誰かに聞いたような気もするが……。

こういうのも逆に泣く子も黙る、と言うべきかなのだろうか。



「ご、ごめんなさいですっ」


そんな益体のないことまで考えられるほどには、真澄が自分を取り戻した時。

同じく照れたような微笑みを浮かべて、少女は真澄からおぼんやら何やら受け取りつつそう言った。


そして、きょろきょろと辺りを見回してから。

ぴこぴことスリッパを鳴らしてお盆一式を一旦鏡台の前にあるテーブルの上に置くと、少女はやはり変わらない笑みのままで改めて向き直り、緊張した様子で口を開いた。



「えっと。危ないところをどうもありがとうです。せっかくつくったおかゆ、こぼれなくてよかったぁ。んと、それで。おかゆ初めてつくったから、うまくできたかどうか分からないでけど、もしよかったら食べてくださいです」


天使の少女は、両手をもじもじさせつつ、考え考えそんなことを言う。

ふと見るとその言葉を証明するかのように、その紅葉のような小さな手に、いくつもの絆創膏が張ってあるのに真澄は気づいた。


フラッシュバックするのは、この世のものとは思えない綺麗なピアノの旋律。

その旋律が、あの小さな手で紡がれていると言う事実に思い至った時。

その絆創膏が、自分のせいで必要になったのだと嫌でも気づかされ、真澄は居たたまれなくなって顔を伏せる羽目になる。



「ごめんね、僕のために。その指痛くない? あんな素敵なピアノを弾く手なのに」


本当にごめんと、2度謝ってから真澄はさらにうなだれてしまった。


「えっ? あややっ。こ、これは別にいいんですっ、たいしたことないですから。それより、あなたの方こそだいじょぶですか? すっごくたくさん血がついてて、たいへんそうだったから勝手に手当てしちゃったですけど、実は包帯巻くのも初めてで……」


天使の少女は、いっそう焦った様子で翼をはたはたさせながら、その手を背中に回している。


後半がだんだんと自信なさそうに声が小さくなっているのを見て、それだけで普段、何不自由なく暮らしているんだろうなと、そのとき真澄は単純にそう考えていたのだが……。

それと同時に、そう言えば目の前の少女が何者なのか全く知らない自分に気づく。



「えっと。うん、大丈夫。こっちの傷もたいしたことはないから。それより、よく考えたら自己紹介もしてなかったよね。僕は阿海真澄。きみは?」

「あ、はいです。名前はここではリアって言いますです。名字は鳥海だって千夏(ちなつ)さんが言ってたですよ」


それはまるで人にそう名乗れと言われたからとでもいうような言い方だった。

だけど、その名前を聞いて、そう言えば学園に噂で広まっていた人物の中にそのような名前があったということに真澄は気づく。


「もしかして、ここは信更安庭学園の秘密の私有地? じゃあきみが学園長の娘さんなの?」


『赤い月』に入れられたことはなかったが。

真澄自身、この信更安庭学園の学生だった。

今の仕事をしていなければおそらくまだ通っていただろうが。

学校の秘密の私有地に棲んでいるらしい天使の噂は確かに聞いたことがあったのだ。

まさか、それが噂通り本当であるとは、真澄には夢にも思わなかったが。



「んと、たぶんそうです。たしか雅(みやび)さんが、そんな事言ってたです」


あくまで自分のことなのに、どうしてか他人事のように、リアと名乗った少女は言う。

まるで自らの意思で動く術を知らないかのような、そんな風にも思ってしまう真澄だった。


だが、それよりも。

真澄にとっては、自分が今どこにいるのか分かった事は大きい。


あの戦いがどうなったのか、たとえ真澄が知りたくなくても知らなければならなかったし、自分がここにいる事を、本部に伝えなければならないからだ。


「そっか。その、それでいきなりで悪いんだけど、電話かなにかないかな? 外と連絡を取りたいんだ」

「え、でんわですか? ごめんなさいです。そのテレビはあるですけど……」 


これから目の前につきつけられるだろう現実にぎりぎりと耐えつつも、吐き出すように言った言葉だったが。

しかしそれを聞いたリアはどうにも困惑ぎみにそんなことを言う。


「それなら、学園の方に連絡してくれないかな、人づてでいいんだ。『喜望』の構成員の誰かがそこにいるはずだから」


今度はそう言うも、リアはうんうん唸り考え込んでいる。

真澄はその様子に何だか不安を感じたが……。


「あ、そうです。雅さんか千夏さんに聞けば分かるかもしれないです。ちょっと聞いてくるですよ。だから、よかったらおかゆ、食べててくださいです」


リアはそう言って微笑みをうかべる。


結局。リアは真澄が泣いていた事に対してほとんど触れることはなかった。

それは、無意識のことなのかもしれないが。

まるで真澄が、そのことに触れて欲しくないことを分かっているみたいで。

言われるままに真澄は小さなお鍋の蓋を開ける。

それは、おかゆと言うよりは卵とにんじんの入ったおじやのようなものだった。


「にんじん好きかなーって思って、それで頑張ってお花の形にしてみたんです」


見ると確かに少々不格好ながらも、ちゃんとニンジンが花の形をしているのが分かる。


「好きだけど、どうして?」

「やっぱりっ。なんとなくそうかなって思ったです。リア、テレビのお料理番組で見たんです。好きなものを食べると、元気がでるんだって」

「っ、そう……あ、ありがとう」


にっこりと笑ってそう言うリアに、真澄は俯いたままそう言うしかなかった。

何も聞かない代わりに、リアが自分を励まそうと……それもケガまでしてそのおかゆを作ってくれたことに、改めて気づいたからだ。



「それじゃ、ちょっと行ってくるです。ツカサ、後はよろしく頼むですよー」


そして、リアはぽむっと背伸びしてツカサと呼ばれたゴールデンレトリバーを撫でると、ぴこぴこと部屋を出ていく。



「も゛ふっ……」


今の今まで、壁際の兵士のように微動だにしなかったツカサと呼ばれたゴールデンは、一拍遅れて承知したとばかりに一声あげる。



「……」


真澄は、鏡台に備え付けられた四角い椅子にそっと座り、おもむろにそのおかゆに手をつける。

思えば、丸一日何も食べていなかったのだ。おいしくないわけがはなかった。


 

やさしさはいつだって心に沁みる。

ひょっとしたら、自分はずっと勘違いをしていたのかもしれない。


止まっていたはずの涙が、何故か止まらなくて。

一口かじった花びらは柔らかく甘く、少しだけしょっぱかった……。



             (第49話につづく)









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