第三章、『Wind time』

第12話、千の名を持つ少年と、いいわけの朝


のっぺりと白いコンクリートの壁、くすんだ緑のリノリウムの地面。

まんまるお月様を見るための小さな格子窓。

食べ物のやってくる穴のあいた鉄の扉。

どこに乗ればどんな軋みを立てるのか、もう憶えてしまったベッド。


……気がつけば少年の世界はそれがすべてだった。



いつの間にか、見た記憶の無い……見ることの無かった外の世界から、聴こえてくるあの歌を聴くまでは。



歌と歌い手は、少年に様々な事を教えてくれた。


外の世界の美しさ、大きさ、楽しさ、醜くさ、矮小さ、辛さを。

時に夢物語を、壮大な冒険を、儚くも熱い恋物語を。


そして、この閉ざされた世界に住む、少年と同じ仲間がたくさんいて……少年はその千番目の仲間だったことを。


重要な世界の真実も、他愛の無い日常の一片でも。

その歌は、少年に生きる理由と希望を与えてくれた。



だからなのだろう。

外の世界に出てみたい、自分も思い切り大声を上げて歌ってみたい。


そして、この世界に住つづける自分を救ってくれた、歌歌う君に、会いたいと少年は思うようになったのだ。



だから、少年は言葉を紡ぐ。


『きみの姿が見てみたいんだ』……と。


歌い手は、少年の言葉に音を震わせて頷き、すぐに少年のもとに現れる。

格子窓をつかんだ小さな小さな手と、月を隠すように覗いた歌い手の顔。


それが、少年の思っていた通りだったのか、全くそうでなかったのかは分からない。

ただ、その表情を、その笑顔を、少年は一生忘れることはないだろう。



歌い手は歌う。


『この籠の中から、飛び立てる時が来る』と。


歌い手自身がそうしてくれるのか、他の誰かなのか。

それとも自分でと言う意味なのか、それは分からなかったけれど。

それでも、少年はその言葉を信じた。



歌い手が去り、外が騒がしくなり、何かが起こっているのを知って。

今までいた少年の仲間達までもが次々に消えていくのが分かっても、少年はその時を待ちつづけた。


気づけば少年に残ったのは思い出だけだったけれど。

それでも少年は待ち続けた。



そして……。

ついにその時がやってくる。

聴こえてきたのは、穴開き扉の前。


それはちょっと前まで少年の両隣にいて、互いを励ましあい支えあって生きていた兄弟の声だった。

少年は、今日が飛び立つ日なのだと確信し、二人の声に答える……。



外の世界には、一体何が待っているのだろう?

少年には、一体どんな運命が待っているのだろう?

その先が、長く永く果てない世界だということは、まだ少年に知る由もなかったけれど。

その一歩が、まさしく少年が生まれ出て、産声を上げた瞬間だったのかもしれなかった……。






             ※     ※     ※






オロチとの戦いがあった、次の日。


知己は朝一で『喜望』の本社ビルへと向かっていた。

その隣には、とても楽しそうな美弥ときくぞうさんがいる。

恭子の計らいもあり、一人と一匹は、久しぶりの朝の散歩を理由に、知己を見送るため、最寄りの駅まで一緒することになったのだった。




「悪いな、わざわざ朝早くに」


知己は、微かな雲が降りてきたような朝もやの中、今日も晴れ晴れと澄んだ青空を見上げながらそんな事を言う。


『あおぞらの家』には、現在10数人の身寄りのない子供達が暮らしている。

当然それを切り盛りしている側にとって、朝の時間帯とはまさに戦場だった。


「大丈夫なのだ。まだみんなが起きるのにはちょっと早いし、おか、恭子さんも少しくらいなら平気だって言ってたのだ」


美弥は知己の一言を察し、すぐにそう答える。

ホントに平気かなとも思ったが、家主である恭子本人がそう言ったのなら問題はないかと知己は納得した。


知己自身が公然の秘密と化したあしながおじさんのごとく、給料で持て余したお金を寄付していることもあり、他に人を雇うことだって可能なのだが、恭子自身が一人でやるといってきかなかったのだ。


美弥だけは今の所特例だったが、恭子からすれば、元々美弥は『あおぞらの家』で暮らしていたので、美弥が働くようになっても、娘の家事手伝いの延長みたいなものだと思っているのかもしれなかった。



「そうか、ならいいんだ。己もさ、美弥ともう少し一緒にいたかったし」

「知己……」


いつもなら、そんな知己の歯にきせぬ物言いに、照れて赤くなったりと忙しい美弥なのだが、この時ばかりはその言葉の奥にある本当の意味に気づいていたから、そんな知己を呼ぶ声は沈んだものだった。



それは、またしばらくは会えなくなるだろうということ。

しかも、今までとは違い、もう2度と会えなくなってしまう可能性だってないとはいえないのだ。



「そんな顔するなって、昨日みたいに何かあったら飛んで帰ってくるからさ」


しかし、そんな暗い考えを追い払ってしまうかのように知己は優しげで柔らかな声をあげ、ぽむっと撫でるように美弥の頭へと手を添える。



「う~、たとえばゲームが先に哲めなくて困ってても?」


知己の手は、とても大きくて暖かかった。

美弥は、そうやって知己に触れてもらえるのが好きだったが、でもやっぱり何だか子供扱いされている気がして、出てくる言葉も、かえって子供じみたものになってしまう。



「はは、本当に切羽詰ってるのなら、それでもかまわないさ」


流石に苦笑は浮かべているものの、知己が答えたのはそんな言葉だった。

そして、言ったことを本当に実現してしまうのが知己と言う男なのだ。


結果だけで見れば、『パーム』の一員である、オロチなる人物を倒してしまった以上、相手の戦いの意思に応え、先に攻勢を仕掛けたのは『喜望』側だと判断されてもおかしくない。


知己が勝った時点で、戦いの口火を切ったのは知己自身なのだ。

知己にはその責任があるし、立場的にも先頭に立って行動するべき存在だ。


それを重々分かっていながらかまわない、と頷いてしまうのだから、

その大物ぶり馬鹿さ加減に美弥の方がかえって恐縮してしまう。



「い、今のは冗談なんだから、そうやって間に受けないで欲しいのだっ」

「そうか? 別にいいんだぞ? 己ってやつは、意外といない方が仕事がはかどってせいせいするってタイプだからな」


そんな自虐ネタで笑い声をあげる知己は、完全にスイッチがOFF状態の腑抜けだろう。


知己が音楽活動とは別に、『喜望』という世界を影で支える大変な仕事をしていることは美弥も知っている。

その中でリーダー的な、人の上に立つ存在だと言う事も、昨日知己本人から聞いたばかりだった。


「周りの人が苦労してる様子が、何となーく浮かんでくるのだ」

「いや、全くだな」


再びカラカラと笑う知己を見ていると、呆れを通り越して逆に感心してしまう。


その度を越した余裕ぶりは母親の影響だろうかと。

昨日知己が考えていたようなのと同じ事を考えてしまう美弥なのだった……。


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