第4話

 ぼくが特別医療少年院を退院したとき、逮捕から三年の月日が過ぎていた。

 娑婆に出るに当たって、叔父――父にとっては長兄――が身元引受人になり、あそことは離れた街で暮らすことになった。

 もっとも、ぼくを引き取るか、引き取るとしたら誰か、それとも引き取らずにおくかで、親族のあいだには結構な紛糾があったらしい。

 被害者が身内であることと、自分のしたことを考えれば、それもまた当然だった。

 殺人事件の被害者遺族は、理不尽な悲嘆を癒やすためのセラピーを受けることが義務づけられている。それは、怒りや憎しみの矛先を間違えないためだ。

事件を起こした個人を恨むことは、すなわち「間違った」報復感情に結びつく。「復讐」は快楽原則としてあまりに甘美であるために、人間は捨てることができない。それが人類を不幸にしてきたのだ。

 結局、叔父がいささかの義務感をもって名乗り出たようだが、身内として遇するというより、居場所がないので仕方なく置いてやるような雰囲気が、最初からあった。

 居心地悪く暮らした。紙の本を手に取ることもなかった。

 成人したとき、叔父にこう言われた。

「きみのために部屋を借りた。保証人になったから、そこで住んでほしい」

 つまりは、保護観察の期間が切れたので、世話をする必要もなくなったということだった。

「家を売ったお金の一部に、支給されたベーシックインカムは手をつけずにとってある。きみの意思で自由に使いなさい」

 しがらみのすべてから解き放たれ、「自由」を得たように思えた。しかしそれは、単なる放置と無関心の言い換えだった。

 法律的に成人に達したぼくは、どんな本を読もうが、すでにゾーニングされることはない。どんな書籍を閲覧したかというログは取られているが、それで誰かに干渉されることはないだろう……虞犯者として治安機関のリストに載り、ライフログをモニタリングされているだろうが。

 ぼくはふらりと家を出た。

 あのときまで住んでいた街に行き、住んでいた家を目指した。

 帽子を目深にかぶり、顔を合わせないように歩いた。ドローンや監視カメラはごまかせないだろうが。

 あの家は焼けた後、敷地は更地にして売られ、今では別の家が建っていた。

 前の道を足早に過ぎると速やかに離れ、大通りを渡ると、そこにもう駅はなかった。

 いつも乗っていたLRTは、廃止されていた。レールはすでにまくられ始めている。

 もはやバスも鉄道も、自動運転車のシェアリングシステムに取って代わられてしまった。オンデマンドで行きたいところへ行けるので、旧来の公共交通機関は大都市で大量の通勤通学客が見込める一部の路線しか残ることができない。このLRTは、その基準を満たさなかったようだ。

 大通りで無人タクシーを一台呼んだ。「流し」で走っていたのか、ほぼ即座にやってきて、目の前に停車した。乗り込むとあの「図書館」へ行き先を指定した。

 その建物は、まだそこにあった。5年前と何も変わっていないようだった。

 門扉は施錠されていなかったが、建物の扉は開かなかった。

 裏手に回り、庭に転がっていた煉瓦を握って、窓ガラスに叩きつけた。ガラスが割れると、手を入れてクレセント錠を回し、窓を開けた。

 警備システムがあれば通報されているだろうが、おそらくこの建物にはないだろう。そんな気がした。

 窓の向こうは、廊下だった。この突き当たりは、書庫だ。

 書庫の扉を開ける。

 よどんだ冷ややかな空気は変わっていない。

 書架を一回りして、本棚から本を抜き出す。

 どさどさと落とし、床の上にうずたかく積み上げる。

 ポケットから、古道具屋で買ったライターを取り出した。あのとき火を付けたのと型は違うが、方式は変わらない。

 炎が上がる。ガスの噴出口近くでは青く、その先端部では赤くゆらめいていた。

 ねじを回すと炎は姿を消し、陽炎のみがノズルの先にゆらめいた。

 ぼくはライターから上がった炎を、本のページに接触させた。

 炎はあっという間に、表紙に乗り移った。表紙に続いて遊び紙が、そして本文が印刷された紙が燃えていく。

 薄暗い部屋で、ゆらめく炎を見ていると、心の奥からなんとも言えない愉悦がわき上がってきた。

 あのときと同じだ。

 火の塊になった本を、向こう側にあった本の山に投げる。

 はじめは密やかな炎は、またたくまに盛大に燃え上がり、周囲に大量にある可燃物を次々と巻き込んで大きくなっていた。

 文庫本が、ハードカバーが、新書版が、雑誌が、単行本が、革装の表紙と箔押しされた題字が、まだペーパーナイフの入っていないフランス装のページが、仙花紙に印刷されたマンガが、雑誌のグラビアページでポーズを取ってほほえむ美少女が、ゴチックの見出しが、黄ばんだ紙に明朝体で印字された「殺人事件」の文字が、炎に包まれていった。

 黄ばんだ紙は炎に包まれて黒くなり、活字の色と同じになった。

 火の回りは早く、みるみるうちに窓も扉も火が回り、もはやこの部屋を脱出することは出来なくなった。

(……!)

 そのとき、ふと、気づいたことがあった。

 ぼくの脳に埋め込まれたライフロガーは、常時脳活動をモニタしている。性衝動や破壊衝動を司る部位が活性化し、よからぬ衝動を行動に及ぼす衝動を検知したら、アラームを発し、それでも止めなければ通報されるはずだ。

 それなのに、アラームがないと言うことは……。

(そうだったのか)

 つまり、法と正義を司る社会システムはこの「図書館」を焼く――「本」を消滅させることを望んでいるのか。北島は退院後、ぼくがそうするように仕向けた。あるいは彼もそのシステムの一部だったのか――

(ならばぼくは「更正した」ということになるな)

 そのとき、すべてが了解された。

 ぼくは傍らの椅子に腰掛け、勢いを増す炎を眺めた。

「本を焼くものは、やがてひとを焼くようになる」と、誰かが言っていた。

 ぼくはすでに、ひとを焼いているのだ。では、もはやなんの躊躇があるだろうか。

 紙の「本」と「暴力」に惹かれる、ぼくは最後の人間なのだ。

 すでにこれら、紙の「本」に書かれている情報と知識は、すべてネットにアーカイブされている。その情報を欲するひとには、あまさず届けられるだろう。ぼくはただ、選ばれなかったのだ。

 人間は暴力の呪縛から解放されつつある。解放されなかったぼくは、アクセスする資格がなかったのだ。

 ひとびとは頭の中にこしらえた因果の連鎖――「物語」でなく、堅牢な事実と疑問の余地のない統計に基づいて判断するようになるだろう。場当たり的アド・ホックに作り上げられた、もっともらしい因果関係に惑わされるのをやめ、すでに出ている最適解に身を委ねるのだ。

 手動運転で、峠の曲がりくねった道を猛スピードを出してコーナリングするような愚行が、もはや行われないように。そんなことをフィクションでも楽しまないように。皆合理的な自動運転車に乗るように。

 それでいい。

 それでいいのだ。

 ここにある「本」はぼくとともに焼き尽くされるのだ。世界から「暴力」がまたひとつ、消える。

 炎はついに天井に届き、火が回った天井の梁が崩れた。燃えさかる梁はぼくの頭をめがけるように落下してきた。(了)

(註:作中の語句については、アーサー・C・クラーク『地球幼年期の終わり』(沼沢洽治訳、創元SF文庫)より引用しました)

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