第3話
ぼくは家庭裁判所の少年審判によって、特別医療少年院へ送致されることが決定した。
法を犯した未成年者の中でも、医学的な問題を抱えていると推測される場合、それに対する処遇を行う施設だ。
その中でも、特殊だと思われたり矯正が困難だと判定された被処遇者は、特別なプログラムの元に更正教育が行われる、という。
自動運転のバスに長い時間揺られて、特別医療少年院に到着したとき、まるで保養所のようだ、と思った。
広い敷地に良く育った庭木の影に見え隠れする、白い建物。正門の前には花壇に噴水。厳めしさはほとんどない。
しかしここはあくまで拘禁施設であり、厳重な警戒が行われている。見たところそれをうかがわせるものは、敷地を囲っている高い金網と、上空を周回しているドローンだけだが。
ぼくは先ず、独居室に入れられた。少年院生活への適性や問題点を見極めるための観察措置である。
そこでの生活は単調だった。
毎日決まった時間に起き、配膳される朝食を食べ、金網で区切られた運動場に出されホログラムの「教官」に見守られながら、ラジオ体操をする。
運動場では金網越しに収容生を見るが、挨拶も出来ず、眼を合わせることもない。
ひとりだけで十五分間の「運動」を行い、他の収容生とは接触を禁じられた。壁には、むろん監視カメラ。
昼食の後は出された「課題」に手を付けたり(「これまでの人生を振り返って」とかいった作文だ)、心理テストを受けたりして午後の時間を潰し、夕食を食べ、わずかな自由時間ののちに就寝する。自由時間には本を読んでいた――むろん、ゾーニングされた電子書籍だ。
ほかの院生は、作業をしたり、授業を受けたり、庭に隣接した畑で農作業をしたり、あるいは畜舎で家畜の世話を担当したりと、「更生」のための様々な教育を受けているようだ。
だが、ぼくはなにも命じられていなかった。戸惑いと空虚な日々が数ヶ月、年単位で続いたのち、ある朝、扉が開かれた。
「出なさい。今日から個別教育を受ける」
独居室から連れ出され、長い廊下を歩かされ、並んでいる扉のひとつが開き、一室に通された。
「はじめまして。君を担当するものだ。北島という」
室内にいた初老の法務教官が、立ち上がって頭を下げた。
髪はもう真っ白で、額や頭頂部ではなくなっている。
「法務教官」とは、少年院や少年鑑別所などの法を犯した、あるいは特別に指導が必要な未成年者が収容される施設で、収容者に指導を行う役職だ。
この時代は幅広い業種に人工知能が進出し、人間の仕事は大幅に減っている。法務教官もそうだ。「教育」のための職業は、人工知能の発展と個人の適性にあわせた、より効率的なカリキュラムの出現で、弁護士や教師と同じく、滅び行く職業ということになっている。
「わたしはこの少年院で、ただひとりの法務教官なんだよ。いや、『人間の』と付け加えるべきかな」
要所に立哨している看守は、その多くが立体映像だ。
ぼくは狭い部屋で、北島という法務教官と机を挟んで差し向かいになった。
「緊張しなくていいよ。ちょっと話をしたいだけだ」
固い表情をしていたようだ。
「本の話をしよう」
そういって北島は頬を緩めた。
「わたしもね、子供の頃は、ゾーニングされない紙の本をよく読んでいたんだ。まだ紙の本が主流の時代でね。家にも図書館にもいっぱいあったんだ。親も読書好きで、そういったことに寛容でね……」
「そうですか」
なんの話をしようとしているのだろうか、と訝っていると、出し抜けに北島は本題に入った。
「きみは、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』を読んだことがあるか?」
「ありません。タイトルは知っていますが」
「そうか」
北島は、机の上に古ぼけた文庫本を取りだした。『一九八四年』だ。
カバーがなく、小口は黄ばんで汚れ、持ち主が繰り返し読んだことをうかがわせる。
「きみが入り浸っていたという『図書館』には、この本はあったのかい?」
「あったと思います。しかし、手に取ることはありませんでした」
「読んでごらん。ただし、この部屋から持ち出さないこと。いろいろうるさいからね
この小説は、ゾーニングシステムを通す限り、きみにはおそらく『不適』と評価されて、はじかれるだろう。しかし、紙の本なら、読むことは出来るはずだ。そして、きみがなぜあんな罪を犯したのも、理解できると思う……」
ぼくはそれから、座ったまま『一九八四年』のページをめくりはじめた。
北島はただ、その有様を見守っていた。
2時間ほどかけて、最後のページにたどり着き、一冊の文庫本を読み終わった。
架空の「一九八四年」、世界は核戦争を経て、三つの超大国に分割されていた。イギリスはオセアニアという国の一部となり、オセアニアは社会主義体制の元にいつ果てることもない戦時体制が敷かれ、市民は配給に頼る貧しい生活を送っていたが、歴史は常に改竄され、実体は知らされず、「ニュースピーク」で言語まで変えられようとしていた。
主人公のウィンストンは、真理省という役所に勤務して、歴史を改竄する仕事をしていた。いつしかそれに疑問を持って、ひそかに禁じられた書物を入手し、読みふける。そして同志の女性と愛し合う。
しかし彼の試みは、頓挫する。ウィンストンは密告によって思想警察に捉えられ、拷問と思想改造の末に女性を裏切り、「党」の原則である「二重思考」を受け入れるのだった。
監視社会と全体主義を描いたディストピア小説の古典、なのだという。
「読み終わりました」
「そうか」
「感想文を書くのですか」
北島はかぶりを振った。
「書く必要はない。そのかわり、わたしの話を聞いて欲しい。この本を読ませたのは、きみと共通の前提が欲しかったのだ。ただ話しただけでは、これからの話がぜんぜん分からないだろうからさ……」
そういって北島は語り始めた。
「わたしは図書館が好きだった。紙の本が並んでいる図書館、建物としての図書館だ。
わたしが通っていた学校は、歴史が古いこともあって、閉架の書庫に紙の書籍を保管してあったのだ。図書委員になったわたしは、司書と顔なじみになり、閉架の書庫に入れてもらえるようになった。
様々な本があったが、その中でもわたしを魅了したのは、新聞の縮刷版だった。わたしが生まれる何十年も前の新聞が、本の形になってそのまま保存されているのだ。
新聞は発行されたその時代の空気をまるごと保存しているのだ。テレビの番組欄、広告、読者の投書。どれを読んでいても飽きなかった。
社会面の記事や論説面を読んでいて、奇妙なことに気がついたんだ。
凶悪犯罪、とくに若年層のものは年々減っているのに、「増えている」と誰もが思っているのだ。
でも、大人は取り合わなかったのだ。データを見せて説得しようとしても、
「そんなことはない」
「嘘をつくはずがないじゃないか」
右から左に抜けていったのだ。いくら証拠を挙げても取り合わない。
『一九八四年』では「真理省」という役所が国家の記録として、歴史の改竄を行っている。
しかし、本当の歴史の改竄は、ひとびとの脳内で行われるのだということを、このとき知ったのだ。
たとえば、わたしが子供の頃は、大人の男は当たり前のように煙草を吸っていた。しかし、今やそんなものは『奇習』だ。外、しかも大勢ひとがいるところで、火を付けて煙を吸うなんて考えられないが、みなは大昔からそうだったように思っている。
かつて大人は往来で立ち小便をし、道路に痰を吐き、電車の中にごみを置きっ放しにした。酒に酔って暴れ、喧嘩をした。
奇妙だよ。
わたしたちは、つねに過去を改竄している。なかったことをあったと信じている。誰に強制されたわけでもなく、ね。
わたしたちは矛盾した信念を持っている。天国に住みながら、ここを地獄だと思うことも出来る。
たとえば、キリスト教の神を信じている自然科学者がいる。神は七日間で世界を作った、なんて与太話を。ならば、かれが観測している物理法則は何日目に作られたのだ? 宗教の世界とそれ以外の世界を使い分けるのか。ではそれは、『一九八四年』に書かれていた『ダブルシンク』と、どこが違う?
『一九八四年』の世界では、ひとびとの生活はテレスクリーンで監視されていることになっている。それは党が強制している、とこの作品には書いてある。翻ってこの現在はどうだろう。市民はもはやライフログを取られ、監視カメラがないと安心して日常を送ることが出来ない。それは誰が強制したのかな? みんなが相互監視されている状態を望んで、自主的に設置しているのではないのか」
ぼくは何も言えなかった。
「オーウェルは正しかった。そして間違っていた。われわれは不断に歴史を改竄している。『党』の強制ではなく我々自身の意向によって。だからそのために『真理省』という役所を作る必要はない。矛盾した信念を抱くのに『ダブルシンク』はいらない。ずっと昔からこの世界は、オーウェルの『一九八四年』なのだよ」
「でも、この世界に『ビッグ・ブラザー』は存在していない」
ぼくが問うと、北島は即座に答えたのだ。
「いらないのだ」
「いらない?」
「そうだよ。なぜならわたしたちこそが『ビッグ・ブラザー』なのだから。歴史を改竄し、相互監視し、過去を忘れる。お互いがお互いに対しての、ね」
北島のペースに巻き込まれそうになる。ぼくはあえて、逆らってみた。
「お言葉ですが、先生の言っていることは、違います」
「なぜ、そう思う?」
「ぼくがここに入れられたのは、両親を殺したからです。本を読んだからではありません」
「なるほど」
北島はその言葉を受けて、問うた。
「ならば、どうして推理小説は読まれなくなったのか、きみは知っているか?」
「ゾーニングのせいでしょうか。殺人事件を題材にしたものは、子供が読むには不適なものと決めつけて、子供から遠ざけたから。子どもが読まない本は、大人も読まない」
予想通り、とも言いたげな表情をして、黙って首を振った。
「本当の理由は、この社会に生きるひとびと全体が『暴力』に興味を失い、『犯罪』は色あせたものになったから、さ」
「……」
「かつて、どうして人を殺してはいけないのですか、という問いが流行ったことがあった。しかしその問いは間違いだ。人を殺すことは、太古の昔から絶対の禁忌と言われてきた。しかし、にもかかわらず人は人を殺し続けてきたのだ。殺すべからずという禁忌があって、ひとは殺人を躊躇するわけではない。殺しても構わないという動機付けが禁忌を乗り越えさせるのだよ。つまり、この問題に対する正しい設問は、人が人を殺す動機は何故か、ということだ。そしていまは、その動機がなくなりつつある時代なのだ」
「そうなんですか……」
今まで、両親も学校の先生も「カウンセラー」とも、こんな話を出来はしなかった。北島は今まで、出会ったことのないひとだった。どこか自分と同じ雰囲気があった。このひとにはすべて打ち明けてもいい。そう思った。
ぼくは自分の「読書」遍歴を、北島に語った。子供の頃『かちかち山』を読めなかったことにはじまった、ゾーニングされていたことに対する欲求不満を。「図書館」に巡り会った喜び、そしてそれを禁止された悔しさと怒りを……。
語り終えたとき、北島は笑みを浮かべて頷いた。
「なるほど」
「わたしの話を聞けばいい。きみが抱いている疑問の答え、すべてが分かるようになる」
次の「講義」の時間は一週間後だった。北島はまず、こんな話から始めた。
「推理小説など、犯罪を扱った
「フィクション、とりわけ、大衆の快楽原則を刺激することを目的とした作品の害悪とは、きみらのような想像力が間違った方向に過剰なものを犯罪に
北島は淡々と語り続ける。
「凶悪な犯罪についての報道を興味津々に消費し、被害者の無念を思い、加害者の厳罰を叫ぶ。それは正義を欲しているように見えるが、じつのところは、犯罪に惹かれ、眼がそらせないということなのだ。どんなに糊塗しようが、所詮は下衆びた心性の現れでしかない」
犯罪への興味は、前世紀末から今世紀初頭にマスメディアが発達し、ポピュリズムの波が世界を覆うにつれて、一時的に増大したことがある。
今世紀初頭、世界的にテロが続発し、テロリズムが注目を集めた。ポピュリズムはそれに呼応するように猖獗を極めた。犯罪者や社会的逸脱者は、ポピュリズムのスケープゴートとされる場合が多かった。
大衆の俗情を煽るポピュリストやメディアは、テロや犯罪の脅威を実態以上に誇張し、犯罪者をモンスター化した。
宗教的な原理主義も、犯罪者に対する不寛容は変わらなかった。
原理主義が支配する国家では、首切りによる処刑や窃盗犯に対する手足の切断など、眉をひそめられるような刑罰が温存された。
しかし、これら諸々の事象は、国際社会において「野蛮」と断罪されることになった。
世界を席巻したテロの波が引くとともにポピュリズムの狂熱が反省され、この国においても、その流れと無縁なわけにはいかなかった。
まず、犯罪事件の被害者、加害者の実名報道がされなくなった。それは法的な規制ではなく自主的なガイドラインとして実施された。
関係者のプライバシーを詮索するのは、結局は「のぞき趣味」であるし、性犯罪の被害者、加害者の実名を挙げて、犯行の態様を事細かに記述するのは、被害者に対するセカンドレイプでしかない。「知る権利」の観点からの疑問も呈されたが、その種の被害者への同情と社会正義の希求を装った異議は所詮、「殺人犯の顔が見てみたい」式の俗情を外面だけ覆い隠すものでしかなかった。「凶悪犯は高く吊せ」式の物言いに辟易していた人々は、おおむねこの傾向を歓迎した。
おなじように、かねてからセンセーショナルな取り上げ方が連鎖的反応を引き起こす危険性が指摘されていた、自殺についての報道にも、国際的な自主規制が行われた。もっとも、自殺報道の自主規制を熱心に推進した国のなかには、体制への政治的抗議としての自殺が相次いでいるところもあったのだが。
当初は匿名報道に不満を持つネット民が、「犯人」や「被害者」の氏名や顔写真とされるものを勝手にアップロードする事件も発生したが、もとより無関係なものも多く、発信元は必ず突き止められ、軽率で不用意な発信者は、高額の賠償金を負うことになったのである。
また「容疑者」段階での実名、顔写真の公表は、たとえその後の裁判で有罪が確定した被告人に対しても「名誉毀損」にあたるという判例が出来、実質的に「実名報道」は息の根を止められた。
さらに、犯罪や自殺などの社会的逸脱行動について、社会学的なアプローチで語られることが多くなった。扇情的な報道を続けてきたメディアは遅まきながら反省を行い、過去の統計や類推といった客観的なデータを元に記事を作り、対策を論じた。
犯罪者は「モンスター」ではなく、犯罪は「卑小な人物が卑小な動機で起こすもの」と正しく解釈された。
また、社会環境の激変も大きかった。
社会に張り巡らされた監視カメラと、人間の行動、情動をモニタリングするライフログのシステムは、大半の「日常的な」犯罪を予防し、起こったところで発生直後の速やかな解決をもたらした。
そのシステムは完璧ではないにせよ、日常的な「用心」を超える事件――往来で突然通り魔に刺されるような事件は滅多に起こるものではなく、過剰に気にかけるものではないのは当然である。それが理解されたとき、モラルパニックは沈静化し、厳罰化を叫ぶ世論も退潮になった。
そして「犯罪」や「犯罪者」に対する恐怖――逆向きの「ロマン」が消えたとき、「犯罪」を描いたフィクションも、その輝きを失ったのだ。
ミステリー自体は糾弾されたわけではなく、熱心な愛好者も存在したが、「推理小説は知的ゲーム」と割り切れるものは、少数派だったようだ。
推理小説が衰退した真の理由は、ひとびとは、たとえ絵空事でも「殺人」を忌諱するようになったことが大きい。推理小説を代表とする「犯罪」についてのフィクションが、現実に発生する「犯罪」に対する見方を歪めてきたことは否めないのだ。
「犯罪」についての現実をありのままに理解することが出来ると、俗耳に入りやすい「物語」を通した見方がいかに事実を反映しない、歪んだものかと言うことがわかってくる。そして「物語」でない、事実と統計に基づいた処遇を行うのが、社会的なコンセンサスになった。
統計学や犯罪心理学、社会学の発展は、フィクションで描かれてきた『犯罪』についての言説の多くが虚構だったことを暴いた。しかし、『犯罪』についての謬見はこの社会に空気のように蔓延し、ひとびとはそれらを通してつねに学習されつづけ、牢固とした固定概念として脳内に刻み込まれる。そして世論となり、正しい政策を行うことを阻害してきた。
犯罪を扱ったフィクション、興味本位の報道などは人間のそんな誤謬に媚びて、増長させる役割を果たしたのだ。だからといって、かつての文化はなかったことには出来ない。その解決策が、ゾーニングだ。メディアや初等、中等教育などで正しい見方を教え、影響されなくなるまで、
刑務所内で起きるリンチの被害者になるのは、性犯罪者、しかも幼女に対する性犯罪を行ったものが多い。かれらは獄中のヒエラルキーの中で最下層に置かれている。それは「おれは弱いものいじめをする男ではない」という優越感、「下」の存在に対するサディズムを「正義」の名において糊塗しているだけだ。「あいつよりはまし」と。娑婆においてもそうなのだ。
おおかた、犯罪の原因は無知と貧困なのだ。それらが減少すれば、犯罪も減少するのが当然なのだ。
実質的に子供のすべてに初等教育が行き渡り、高等教育が当たり前になった。少子化によって、子供の教育につぎ込むリソースが増え、かつては多かった子供の素行や教育に「無関心」な親が減った。
それに加えて、ネットなどで子供の行動や友人関係が「可視化」されたことも大きい。かつてネットやSNSは親の目の届かない「密室」だと思われていたが、知識が行き渡るにつれ、ネット空間は外部から丸見えであることが常識になり、子供のすべての行動は保護者に筒抜けになった。
犯罪が減少した外的な要因はさらにあった。
すべての商品、製品がインテリジェント化し、ネットに繋がるようになったIoTの進展がある。
店舗の出入り口に設けられ、内側を通っただけで自動的に清算を行うペイゲート、商品一つ一つに埋め込まれたピコインテリジェントタグによる物品の管理、電子マネーや仮想通貨でない「現金」を使う機会の減少。それらは、かつて大きな割合を占めていた「万引き」「置き引き」「自転車泥棒」といった軽微かつ偶発的な犯罪の遂行を困難にし、「窃盗」自体の件数を減らしたのである。
これらの軽微な犯罪は、もっと重大な犯罪に至る「ゲートウェイ」の役割も果たしていた。それらが予防されると、重大な犯罪も減少したのだ
むろん、現実と人々の認知とのあいだには、ギャップがある。
犯罪の発生件数自体は減っていても、治安が悪化しているような印象を受けてしまうこともあった。その現象は「体感治安」という言葉で語られてきた。
だが「体感」を全面的に当てにしていいものなのだろうか。高熱を出しているときは、真夏でも布団をかぶって悪寒に震えることがある。それを正しい判断と呼べるだろうか。
「良い子が危ない」と言われても、殆どの「良い子」は危なくもない。極端な例が皆の気を惹いているだけだろうから、ごく一部の問題にこだわることは、単に親や社会に無用な負担を与えるだけだ。
社会的逸脱者を完璧に出さない対策は不可能である。過ちを犯したものを鷹揚に許し、再起の機会を与える。それくらいの社会の余裕はあるし、長い目で見れば安上がりだ。レアケースにはあまり騒ぎだてすることもなく、それにこだわり、応報と対策を必要以上に講ずることは、むしろ社会を窮屈にし、「暴力」を増幅させるだけだ。
かつて、テロ事件の犠牲者遺族はテロリストに対し『きみたちに憎しみはあげない』と言った。その通りだ。動機は政治的意図から個人的な憎悪に至るまで幅広いが、市民の日常生活を脅かすテロリズムには、無視、黙殺こそが最大の報復であり、対策なのだ。
じつのところ、このような政策をとるようになってから、殺人や傷害などを含む暴力的な行為、窃盗や詐欺のような個人の所有権を侵害する行為は、劇的に減少したのである。
人類文明は次のフェイズに移行したのだ。
結局、このひとことに尽きるだろう。ある本にあった言葉だ。
「育ちのよい人間は、他人の社交場のヘマなど新聞で読む気にはならぬはずだから。」(註)
北島の話を聞いていると、ぼくは蒙を啓かれた気分になった。
社会が何故、今のような社会なのか。なぜ暴力は消えたのか。ぼくの中にあったいろいろな疑問やわだかまりが解かれていく。
いつしか北島の話を聞くことが、ここの生活でのぼくの唯一の楽しみになっていった。
少年院には職員のための官舎が隣接していて、北島はそこに住み込んでいるようだった。
同じ敷地に建っているのは、おそらく、不測の事態に備えるためだろうが、これでは互いに拘禁されているのと変わらないのではないだろうか。
今日も北島の「個人授業」が始まった。
北島から語られる人類の歴史は、
「人類の歴史は、暴力の歴史だった、といわれる。
「ひとびとは目を惹いて『物語』になる、突出した現象だけ見て悲観的な将来像を描いてきたが、そうではない。歴史を通してみると「暴力」の総量は漸減してきたのだ」
今は人類史上最も「暴力」から遠ざかった社会である。親や教師による体罰は姿を消し、暴力沙汰もほとんど起こらない。恋人や夫婦はドメスティックバイオレンスを告発することにためらいがなく、デモも抗議行動も平和裏に行われる。その流れは、やがて国家間にも広がるだろう。
かつて世界は、もっと野蛮で残酷だった。
戦争の起源は農耕定住生活、私有財産の起源と同じだと思われていた。
常に食料を追い求めるフロー型の狩猟採集生活から、大量に生産した食糧を貯蔵し配分するストック型の農耕生活に移って人間は「資産」を溜めるようになり、それを奪い合う戦争が始まった、という説だ。
組織的な「戦争」の起源としては妥当性がある仮説だが、早呑み込みすると、それ以前のヒトが「平和」に生きていたようにも思ってしまうところがある。しかし、いにしえの狩猟採集生活では、ヒトの暴力性ははるかに強力だったのだ。
先史時代の人骨からは、しばしば鈍器で殴られて砕かれたり、
些末ないざこざで、ヒトはたやすくヒトを殺していた。個人の争いごと以外でも、部族抗争でジェノサイドが頻繁に行われていたと推測される。
しばしば「自然と共に生きていた」「争いを避ける『知恵』を持っていた」と美化されるアメリカ大陸の先住民にも、他の部族に虐殺されて滅んだと推測されている部族が存在するのだ。
中央アジアの騎馬民族は中国や中東、東欧の大都市を襲って、しばしば住民を皆殺しにし、財宝や女を「戦利品」にした。中国大陸で王朝交代の際に引き起こされた内乱、中東のイスラム教徒、それに対抗する十字軍の遠征にともなう略奪。そして大航海時代にヨーロッパ人がアジア、アフリカや新大陸で行ったこと。
当時はごく当たり前の所行と思われていた。近代になって、ようやくそれらが「問題」になったのだよ……。
人間はかつて「悪徳」を知らないエデンの園に住んでいて、そこを追放されたから、歴史に記されたあまたの惨状があるのではない。
ヒトはかつて、暴力そのものの性行為によって受胎し生まれ、暴力と共に生き、その多くは暴力によって死んでいった。
それを「文明」の発展とともに低減させてきたのだ。
たとえば、公開処刑は庶民から貴族にかけての娯楽だった。
中世から近世にかけての英国では、「ブラッド・スポーツ」というものが流行っていた。スポーツとは言うが、ひとことで言えば、動物いじめだ。
「牛いじめ」「クマいじめ」は人々を熱狂させた。大衆だけではない。貴族や聖職者も楽しんでいたのだ。
鎖につながれた牛に何匹もの餓えた犬をけしかけ、食い殺される有様を楽しむ。牛は必死で抵抗する。犬は牛の足蹴りを躱して噛みつこうとする。そのために改良された犬が、ブルドッグだ。きみが面白がって猫を殺したようなことを、みんなが楽しんでいたのだよ。
人々の「民度」が上がると、そういった「野蛮」な見世物は非難され、あるものは法律で禁止され、あるものは表舞台から消えていった。一部の洗練されたものは、かろうじて「文化」として存在を許された。キツネ狩りや闘牛などだが、それらも時代が経つにつれて日陰に追いやられ、廃れていったのだ。
人間同士の格闘も、そうだ。黎明期のボクシングは時間無制限で、相手のパンチをよけることなく、素手で殴り合い、死人が出ることも珍しくなかった。それでも、眼をえぐったりしたかつてよりは、紳士的になったのだよ。
19世紀中盤にはグローブの着用を定めたクインズベリー・ルールが誕生し、野蛮な果たし合いから近代的スポーツに生まれ変わった。
世界初のシリアルキラーとされる「ジャック・ザ・リッパー」の事件が起こったのも同じ頃だ。彼――彼らかも知れないが――が狙ったのは売春婦だった。彼女たちもビクトリア朝の道徳からはみ出した存在だったのだ。
ひとびとは己から追放された野蛮な衝動や背徳的な妄想を、時折発生する異様な事件、あるいはフィクションに求めるようになった。
その時代はしばらく続いたが、「暴力」に対する嗜好は次第に失われていったのである。ついにひとびとはフィクションとしても「暴力」を求めなくなった。
「『歴史』を振り返れば、文明と野蛮、戦争と平和は一進一退を繰り返しているように見えるが、『暴力』の総量は、長いスパンで大局的に見れば確実に減っていったのだ。そして二一世紀の中盤、ある『臨界』に達し、この国から『暴力』は急速に勢いを失っていったのだ。そして、どうも『暴力』が減少しているのは、この国だけではなさそうなのだ。たとえば、世界的に、コンペティティブなスポーツの人気が減少していることも、その現れだ」
近代オリンピックの歴史が中断されたのも記憶に新しい。前世紀から今世紀初めにかけて、あれほどの巨大産業だったプロスポーツも、今は見る影もなく衰退している。サッカーなどのスポーツが世界中を熱狂させたのは、昔の話になりつつある。
人々は適度に身体を動かして健康を保つことは楽しんでも、アスリートに過剰なほどの競争をけしかけて、それに熱狂したりはしない。
人工知能が政治に関与することによって、ナショナリズム、ポピュリズムの狂熱は克服され、穏健な調整型の政治になった。そのため究極の暴力――「戦争」の危険も、かつてより格段に減った。
未だ世界の各地で紛争は散発的に発生しているが、「世界大戦」は百年以上起きてはいないし、先進国同士の武力衝突は、長く発生していない。兵器産業がビッグビジネスだったのは過去のこと。二十世紀に開発された武器が未だに使われているのだ。
攻撃性、暴力性は学習されるものだ。非暴力的な男女が結婚して子供が生まれ、子供が暴力に縁のない環境に育つと、その子供も非暴力的になる。この好循環で、人間のメンタリティはここ数十年で劇的に変わったのだ。
同じ動物がそんなに早く変わるわけがないというなら、犬をご覧。現在居る犬種のすべて、わずか1万年前に遡れば、狼という共通の先祖にたどり着く、生物学的には同じ種類だ。しかし、今や愛玩犬のチワワやトイ・プードルと、大型犬のセント・バーナードやシベリアン・ハスキーが同じ種の動物だとは思えないだろう。
あるいは金魚。ランチュウやデメキン、リュウキン、お互いに似ても似つかない姿をしているものばかりだが、どれも元を辿れば鮒なのだ。
同じように、前世紀末、今世紀初頭の人類と現在の人類は、その内面、価値判断において相当に違っている。「常識」や「道徳」の面で見る限り、前世紀末の人類はわれわれにとって、凶暴で野蛮で礼儀知らずな社会生活不適応者にしか見えないだろう。
やがて人工授精と人工子宮による出産が当たり前になるなら、性行為という「暴力」がこの世から消える。
食肉を細胞から培養来るようになるなら、食肉にするため家畜を屠る必要はなくなる。食用のための家畜の殺害という「暴力」からも、人間は自由になる。屠畜業は世界各地で、被差別階級の職だった。家畜を殺害するという暴力についての後ろめたさが生んだ差別もなくなる。
もはや世界には『暴力』も、それに蓋をするための『道徳』も必要ない。人類史上最も平和で安全で豊かで、人々は優しく弱者に同情的で公徳心に富んでいる。心の欲するままにすれど、則を越えることはない。そんな世界ではもはや『かちかち山』を誰も読みたくはない、読んでも意味のないものになったのだよ。たしかに失われるものはある。しかしそれ以上のもの、我々人類がはるかな過去から希求してやまなかったものが、もうすぐ手に入るのだ……。
北島の語りに、ぼくはすっかり引き込まれていた。そうなのだろうか。しかし――。
そこでぼくは、ふと疑問を抱いた。そして北島に問うた。
「で、その世界で、ぼくはどうすればいいのですか?」
「どうもしなくていい」
「……」
「ただ、生きていればいい。誰もそれを邪魔したりは、しないよ。世界中、殆どの人間から『暴力』が消失したなら、暴力犯罪者を裁く必要も罰する必要もない。所詮は全体の中のわずかな例外だから、誰もそれを不平等に思わない。理解できないこと、する必要のないこととしてそっと無視される。それだけだ。予防が十分なら、社会的には何の問題もない」
北島は眼を伏せた。
「最後になったが、きみには、告白しなければならないことがあるのだ……わたしは、きみと同じく不幸な人間のひとりなのだ」
「北島先生……」
「わたしはかつて――きみがことを起こしたのと同じぐらいの年頃、やはり『犯罪』に興味を持った。そして実行した。面白半分に女児の頭を金槌で叩き、包丁を突き刺した。見つからなかったのをいいことに、同じような事件を繰り返した。調子に乗っていたわたしは、さらにメディアに『犯行声明』を送った。そして、さらに何人かの犠牲者が出た後に逮捕されて、ここに入れられた」
ごくり、と唾を飲む。
「実行したとき、わたしは過去のあまたの犯罪者のように、『悪のヒーロー』になれたと思ったよ。しかし当てが外れた。わたしに興味を持つものはいなかった。それがなぜかは、のちになるまで分からなかった。分かったのは、ずいぶんと時が経ってからだった……
退院したとき、身元引受人になった弁護士は、わたしを学校に通わせてくれた。心理学や社会学、そして歴史を勉強して、自分が犯したことの意味を知り、そして自分がこれからなすべきことを考えた。
そして、社会も変わった。
刑事政策が変更されたとき、わたしの精神鑑定をした教授にこの仕事を勧められた。しかし、過去を知るものたちは、冷ややかだった。
「例え試験に受かっても、お前のような人間を採る施設はない」
面接の時、そうも言われた。
当然だろう。
彼は、少年院でかつてのわたしを指導した法務教官だったからだ。
しかし、採用された。司法政策の変質があったからだ。わたしはここに戻ってきた。そして、わたしの終の棲家になるだろう……。
ここにいる人間の法務教官は、わたしだけだ。触法少年の矯正というシステムには、もはやわたしのような「人間」しか必要ではないのだろう。
思えば、きみは不幸だったのかもしれない。あと五十年ほど早く生まれていれば、きみが持つ『暴力』への性向は、社会の中でさほど奇異なものとして受け取られなかったはずだ。一生のうちに何度か、こういった施設のお世話になることはあるかも知れないが、社会の中に居場所が完全になくなることはないだろう。そういった性向をむしろ歓迎するコミュニティも、当時はかろうじてあったのだから」
「犯罪学の草創期に活躍したイタリアのロンブローゾは、犯罪者とは『先祖返りした人間』だといった。のちの時代、彼の論は差別的だと批判された。たしかに、『先祖返り』の印を容姿などに求めていたところは、差別的といわれても仕方がないものだった。しかし、現在なら正しいのかも知れない。もはや殺人などの凶悪犯罪を犯すのは、過去の遺物。社会はもはや『犯罪者』を必要としない」
「必要?」
「犯罪は『社会の歪み』を暴き出すものとして注目されたこともある。しかし、もはやそんな時代でない。われわれはもはや憎まれもしない。疎まれもしない。賞賛されもしない。ただ、そっと排除されるだけだ」
そこまで喋って、北島は席を立った。
「以上をもってして、私の講義は修了とする。これで最後だ。さようなら。きみに会うこともないだろう」
ぼくははっとした。北島は席を立ち、ぼくに目もくれず、外へ出て行った。
居室に戻ってその日のうちに、再び房の外に呼び出され、立体映像の「所長」から退院が言い渡された。
北島と会うことは、もうなかった。
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