99.招かれざる者

 日が落ちて水が冷たくなってくると、あたし達はホテルに戻ってフロントでタオルを借り、一旦部屋に戻った。


 ミクルはすぐに大浴場へ。あたしはそのまま部屋に残って、シャワーだけで済ませた。


 背中の認定印だけでも注目されやすいのに、顔にガーゼ、背中に刺し傷、全身に打撲跡ときたら、さすがに人前には出られないよね。


 バスルーム出て大きな窓に目を向けてみれば、暮れ落ちかけた水平線が見える。まるで絵画のような美しさに、思わず呆然と見惚れてしまった。


 河川敷の絢爛な朝陽とはちがった、重く静かな景色。


 あたしは窓を開け、潮騒の匂いと音も取り込み、視覚聴覚嗅覚でその絶景を楽しんだ。五年ぶりに出会う景観は、記憶のそれより遥かに壮大で荘厳で――いつまで見ていても、飽きることがなかった。




「…………ちょっとエイル姉、いつまで寝くたれてんの? もう七時過ぎてるよ。食事だよ!」


 食事という言葉に、あたしは飛び起きた。


「すごい反応っすね、エイル姉。これで発電できそうなくらい、いい跳ねっぷりだったよ」


 呆れたように、ミクルがため息をつく。


 しかし、あたしが跳ねるのも無理はない。何しろこの腐れホテル、食事しかろくなものがないのだ。


 何のために作ったの? ってくらい、寂れたゲームコーナー。

 何が名産なの? ってくらい、ご当地無視して全国各地のB級品ばかりを揃えた土産物屋。

 何を歌わせたいの? ってくらい、えらい偏った曲目しかないカラオケルーム。

 何を勘違いしてるの? ってくらいムーディなバー。


 出来れば行きたくないな……という微妙ラインを絶妙に押さえた名所の集合体なのだ。


「母さんは? もう来た?」


 寝起きで軽く揺れる頭を押さえつつ、あたしは尋ねた。


「まだ。ちょっと遅れるから、先に食べてろって」


 子供か、と笑われるだろうけれど、あたしは早く母さんに会いたかった。

 会って、元気になった姿を見せたかった。

 そして心配かけたことを謝って、ありがとうと伝えたかった。



 ミクルと共に貸し切った小さな宴会場に向かうと、ノエル姉とサシャとヨッシーは既に揃っていて、お料理ももう並べられていた。


 たどたどしいヨッシーの乾杯の音頭に、サシャ以外の全員で野次を飛ばしまくり、宴の開始!


 あたし達は、海の幸山の幸をめいっぱいに堪能した。味も良いけど、量も多くて、本当に料理だけは最高なんだよね!



 腹一杯になった後は、恒例の隠し芸大会。



 トップは我らがノエル姉による、格闘武術の演武披露。


 ノエル姉は高等部を卒業するまで、総合武術部の部長だったのだ。あたしも資格取るためにいろいろ習ったけど、今でもノエル姉には勝てる気しねーよ。こりゃ夫婦喧嘩したらヨッシー、一溜まりもねえな。

 見てみろ、ヨッシーの奴、体の大きさがいつもより二十パーセント減になってる。


 二番手は、サシャとヨッシー。サシャの歌に合わせて、ヨッシーが口笛を吹くという親子芸だ。


 サシャはなかなか歌が上手い。親と金が許せば、未来の歌姫だな。ヨッシーは……まあ頑張ったと思うよ、うん。


 そしてあたしは、体操部時代に習った技の披露。


 飛んだり跳ねたり捻ったり、いつもより多く回っておりま~すなどと言いながら、回転技を連発するというもの。良かった、なかなか受けたようだ。


 ラストを飾るのは、ミクルの『使用前使用後』と名付けられた芸。


 実はこれが一番楽しみだったりする。


 すっぴんから制限時間十分でどこまで華麗に変身できるかっていう、彼女の美の技巧が試される芸なのだ。


 毎回すごいんだけど、今回は特にすごかった!

 ミクルが振り向いた瞬間、別人かと思ってぶったまげて、皆揃って仰け反ったもん!!



「すげえ、マジかあ!? お前、それで男たぶらかしてんの? そりゃすっぴんになったら逃げられるわ!」


「ありえねえ! お湯で落とせる整形じゃん! こりゃ朝起きたら『誰?』って言われるわ!!」


 姉二人による心からの絶賛が、どうやら妹君にはお気に召さなかったらしい。


「やかましいわ、ババアども! 若さに僻んでんじゃねえよ! 贅肉ブスに筋肉ブス!」


 などと言い返しちゃったから、さあ大変!

 ノエル姉、キレる!


「だぁれが贅肉ブスだ、ええ? こいつがミニ筋肉ブスってのはよくわかるんだけどよ?」


 おいこら、悪口の装飾増やしてんじゃねーよ!

 あたしもキレた!


「黙れや、大肉マン。悔しかったらその脂肪から、どこに筋肉あんのか見せてみろや。あたしと、そこの化粧化けした肉食モンスターになあ!」


「肉食モンスターだあ? そこの肉々しいデブス女にすら旦那がいるのに、三十路近くにもなって男一人捕獲できねえお前には言われたくねえんだよ、喪チビマッチョ!」


 こうなったら、誰にも止められない。

 ヨッシーはサシャを抱き締めて震えるばかりだ。



 三つ巴の乱闘開始! ――――と思いきや。




「…………てめえら、何さらしとんじゃ」




 低く唸るような、恐怖の音色。


 振り向かずとも、あたし達にはそいつが誰か、嫌というほど理解できた。だからケンカしていたことも忘れて、ひしと抱き合った。



 モルガナ・クライゼ、御年五十二歳。


 彼女からクライゼのチャンピオンタイトルを奪った者は、今のところ、一人としていない――そして、これからも。




 気が遠くなるくらいこってりがっつり絞られ、更にクライゼ家家訓を百回暗唱させられて、あたし達はやっと地獄の説教から解放された。


「ああ、もう! お前らバカ三人相手してたら、こんな時間じゃないの!」


 いただきます、ときちんと挨拶して、母さんが食事を始める。


 ノエル姉とミクルは、ぐったりしながら酒を呷っていた。ヤケ酒ってやつだ。


 あたしは母さんの傍に残って、ひたすら給仕に勤しんだ。できるだけ昨日の恩返しがしたくて。


 といってもグラスが空けばお酒を注ぎ、お皿が空いたら邪魔にならないように下げるといった、バカでもできる作業だけど。


 母さんは暫く無言だったけれど、あたしの頑張りを認めてくれたのか、食事も半ばまで進んだ頃に、ぼそり、と小さな声をかけてきた。



「…………あんた、ちょっと元気出てきたみたいじゃない」


「うん、ウチにいたら落ち着いたみたい。帰ってきて良かったよ」


「そう」



 普段以上に素っ気ないのは、気を遣ってくれてるからなんだろう。


 そう思うと甘えたい気持ちが抑え切れなくなって、あたしは母さんに抱きつきたい衝動に駆られた。




 しかし、母さんに手を伸ばしかけた、まさにその時――――背後の扉が、勢い良く開く音が響き渡った。




 タイミングの悪い珍入者を、振り返りかけたあたしは――。






「…………アインス!」






 ミクルの嬉しそうに弾んだ声を認めると、細胞全てが活動を停止したように、動けなくなった。




 母さんが、グラスを落とす。


 床に落ちて、中身を撒き散らし、転がる。


 その動きが、まるでスローモーションみたいに、見えた。




 あたしは俯いて必死で目を閉じた。


 見たくなかった。

 絶対に、その姿を目に映したくなかった。




 隣にいた母さんが立ち上がる気配。

 肉を打つ音。

 ミクルの悲鳴。




「お前、何しに来た!? 来るなっつったろ! 何しに来たんだ、ええ!?」




 重く轟く、母さんの怒声。

 長く続く沈黙。

 母さんと『誰か』の遠ざかる足音。

 扉が静かに閉じられる音。



 そしてまた落ちる、静寂。



「…………エイル、具合悪そうだよ。調子乗って食いすぎたんだろ。片付けはいいから、とっとと部屋に戻って休みな」



 ノエル姉の声に、あたしはやっと目を開けた。



 そっと背後を伺うと、そこにはもう、誰もいなかった。



 ぎこちなく顔を上げてみれば、ヨッシーもサシャもミクルも、息を詰めたような状態で固まっている。



 この激しい動揺を皆に気付かれないよう、必死で震えを堪えながら、あたしはノエル姉に頷いてみせた。

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