98.海は広く、心は軽く

 ノエル姉が放った刺客、サシャのくすぐり攻撃で起こされると、もう時刻は十時を過ぎていた。


 五年ぶりに実家で迎える、夏の朝。昼近いけどギリ朝の空気は、学生時代の夏休みを思い出してテンションが上がる。


 フライハイした気分に任せて、久々に河川敷を走りたかったのに、残念ながら全身筋肉痛プラス足の裏を傷めてるという惨状。てことで泣く泣く、実家発思い出巡りランニングは諦めた。


 ヨッシーは既に、車を取りに出かけてしまったらしい。久々の運転になるから、練習がてらドライブしてくるはずだし、少し遅くなるんじゃないか、ということだった。


 ならサシャと遊んで、時間を潰そう……と思ったら、そうはいかなかった。昨日遅くに騒いだ罰として、浴室掃除を命じられたのだ。ちなみにミクルは、トイレ掃除。ったく、ノエル姉は相変わらず人使いが荒い。


 丹精込めて自分で磨き上げた浴槽を一番乗りで堪能したくて、あたしは掃除が終わるや即お湯をためて、ゆったりバスタイムを楽しんだ。ウチのお風呂、とっても広くて快適なのさ。ここしか自慢できるとこないと言っていいくらい。


 お風呂から出ると、ノエル姉が作ってくれた朝食兼昼食をモリモリ食べて、一泊する支度をしてヨッシーを待機。


 ところが、ヨッシーの奴、お昼には戻るって言ってたのに帰ってきたのは二時過ぎ。その理由が、『大好きな自動車に乗ることができて、嬉しくて楽しくて、つい時間を忘れちゃった』からだと。


 もちろん、ノエル姉に怒られてましたとも。それはもう、言葉で殺されるんじゃないかってくらいに。ヨッシーは涙目で助けを求めていたけれど、あたしとミクルはさっと目を逸らした。


 ごめんよ、ヨッシー……キレたノエル姉の討伐なんて、あたし達には無理だ。母モルガナに依頼してくれ……。



 ノエル姉の気が済むと、ヨッシーが借りてきたワゴン車へ速やかに移動。カミュが乗ってた高そうな車に比べると、ボロいしダサいしスピードも出ない。でも、広さは勝ってる。何たって、後部座席全部倒したらゴロンできるんだぜ!


 車が走り出したら、サシャが酔わないよう、姉妹三人は力を合わせて頑張る。あたしがブリッジして『秘密の通路』なるものを作り、ノエル姉が娘のお気に入りのぬいぐるみで腹話術をして導き、最後は変顔をしたミクルが待ち受けているという、いつもお決まりのアホ芸だ。ただこれをひたすら繰り返すだけ。それでも、サシャは大喜び。というのも、五年前に比べて、二人共明らかにレベルを上げてきていたからだ。この調子なら、到着するまで大丈夫そうだ。


 あたしがいなかった五年の間は、どうしていたんだろう……とふと、疑問に思った。けど、聞くのはやめておいた。聞きたくない名前が出てくるに違いないので。



 途中トイレ休憩を二回挟み、二時間ほどかけて到着した目的地は、観光ホテル『ソ・ミイナ』。



 目の前が海というのが売りなのだが、外見はホテルになりきれないペンション、中身ははっちゃけた民宿という、限りなく半端な建物だ。


 クライゼ家は毎年の夏、この微妙なホテルで一泊する過ごす。あたしが物心ついた時にはもう恒例となっていたから、母さんと父さんが結婚した時くらいからのお決まりなんじゃないだろうか。


 おかげでお得意様のお墨付きをいただき、ほとんど顔触れの変わらない従業員達から、やたらフレンドリーに話しかけられるという要らない特典がもれなく付いてくる。


 ていうか、彼氏できたかって毎回聞くな。できたら見せびらかしに来るから、その時まで黙っとけ!


 部屋はいつものように、四部屋予約してあった。母モルガナの部屋、ノエル姉の一家の部屋、ミクルとあたしの部屋――そしてアインスの部屋。


 あたしはそれを聞いて、少し気分が重くなった。


 それぞれに割り振られたルームキーを手に部屋に向かい、まず荷物を片付ける。それから夕食までは、自由行動。


 たった一泊だから大した荷物でもないはず……なのだが!


 ミクルだけはブランド物の大きなバッグを破れんばかりに膨らませていて、部屋に入るなり、それをベッドにぶちまけた。


「何で一泊なのに、そんなに必要なのさあ〜」

「何度も言ってるでしょ! 乙女の嗜みですう〜」


 着替えと眼鏡ケースだけを入れてきた紙袋を適当に置き、あたしはベッドに転がって、せっせと大量の荷物を整理するミクルを眺めた。


 それにしてもさぁ、乙女の嗜みって言うけど……嗜むどころの量じゃなくね?


 様々な種類の化粧品、これは何とかわかる。


 でも一泊だっつうのに、何で五枚も六枚も服がいるの? 何で五つも六つもネックレスがいるの? 分身すんの?


 それに、これまたいろいろなマシンの数々。


 美顔器とマッサージャーは許すとしても、ドライヤーならホテルにあるじゃん。ていうか、何でヘアブラシが十本もあるの? ……え、まだある? 合計十六本!?


 おいおい、分身だけじゃ飽き足らず、頭部だけ分裂増殖する気かよ!


 これはいくら何でも黙ってられなくて、あたしは身を起こしてミクルに尋ねた。


「ねえ、何そのブラシ。今からここで美容院でも開店するの? 暇潰しにアルバイトすんの?」


 するとミクルは、憤然と反論してきた。


「そこまで金に困ってねーよ! それぞれ役割が違うんだっつうの! これは朝用スタイリングブラシ、これは夜用。小さいのは前髪用ね。その日の髪質に合わせてブラシ変えるから、全部持ってきたの。これはドライヤー専用で、ヘアセットするのに必須。部分ごとに巻き方も巻きの太さも違うし、気分によって巻き変えるから、これも全部持ってきた。それと、これは艶出しでこっちは頭皮活性化するのに良くて……」


「もういい、もうわかった。もうやめて下さい……」


 自分から質問したくせに、音を上げたのはあたしの方だった。


「髪は女の命っていうじゃん。エイル姉もケアした方がいいよ! そうそう、アインスの髪もセットしてあげようと思ってさ、そのためにメンズ用ブラシ買ってきたんだあ。ね、アインスいつ来るの!?」



 そうか、ミクルは何も知らないのか。まだ、聞かされてないのか。



 無邪気な笑顔を向けるミクルから目を逸し、あたしは素っ気なく告げた。



「多分来ないよ。マンションも出てったから、生きてるかどうかもわかんない」



 ミクルがびっくりして、手にしていたブラシを落とす。



「嘘!? 何で!? あたし、超楽しみにしてたんだよ! それだけを楽しみに今日まで生きてきたんだよ!?」



 ミクルはあたし達の中で一番アインスと年が近いせいで、母さんやノエル姉とは違った可愛がり方をしていた。



 要は、素敵な異性として。



「さあ? 他に住み良い場所が見付かったんだろ」



 ベッドの上でショートパンツから伸びた足をゆらゆら動かして何気ない風を装いながら、あたしは答えた。


 ミクルは見ていて憐れなくらい、がっくりうなだれてしまった。


「女かな……彼女、できたのかな……。アインス、可愛いしカッコイイし、美人だし美形だから……」


 ついさっきまでブラシ談議を熱く語っていたとは思えないほどの落ち込みっぷりに、あたしは申し訳なさでいっぱいになった。


 こいつには暫く、絶縁した話はしない方がいいな。


「そう落ち込むなよ。女だとしても、どうせすぐ別れるって。長続きした試しないじゃん」


 適当極まりないフォローだったけれど、ミクルは途端にぱっと輝くような笑顔になった。良い意味でも悪い意味でも、切り替えが早い奴なのだ。




「だよね! しかも今はマジナにいるんだもんね! 会おうと思えば、いつでも会えるんだもんね!」




 その言葉は、鋭く深く、あたしの胸に突き刺さった。




 羨ましい、と素直に思った。


 笑顔でアインスと呼び、いつでも会えると言うミクルが羨ましくて、仕方なかった。


 一瞬、妬ましいとまで思ってしまった。




 いかんいかん。こんなこと考えるなんて、小さい小さい、器が小さい。


 嫌な気持ちを振り払うように、あたしは飛び起きてジャージの上着を脱ぎ捨てた。


 このクソ暑いのに、ちまちま隠してられっか!

 せめてここにいる時くらいは、伸び伸びするんじゃ!



「お、何? 元メディカル・ハンターさん、あたしとやる気? 体中怪我だらけだけど……いつもの、行けんの? あたし、手加減しないよ?」



 ミクルが、ニヤリとコーラルに彩ったくちびるを吊り上げてみせる。あたしも笑い返した。



「上等だ。今日という今日は、海の藻屑にしてやるぜ!」




 あたしとミクルが向かったのは、正面玄関を出て道一本挟んで向かいに広がる、美しい砂浜の海岸。


 開催するのは、姉妹チキンレースだ。


 適当に拾った棒を波打ち際に立てて、濡れないように取ってくるという、素晴らしく単純なゲーム。



 普通に考えれば、足に自信のあるあたしが圧倒的に有利、なんだけど。



「ちょおま、ウッソだろぉ!? 何であれが取れるんだよ!?」


「あたしを侮るんじゃねーよ! 今日のマスカラはウォータープルーフじゃねえし、服も靴も買ったばっかなんだからな! 濡らしたくねえっていう気合が違うんだよ、気合が!!」



 とまあ、こんな感じで、毎度ミクルが異常な強さを発揮し、いつも負かされてしまうのだ。


 結局、あたしは転んで全身海水でびしょ濡れになり、今回も敗北した。


  腹立ったから『勝利の祝い水』と称して水鉄砲を食らわせたら……あちゃあ、顔面に直撃しちゃったよ。


「てめえ、何すんだ! ファンデ落ちたら日焼けするだろうが!!」


 キレたミクルが、メイクも服も靴も構わず海に入り、バシャバシャと水をかけてくる。うん、日焼けどうとか、もう関係なくなってるよね。


 こうなるともう止まらない。水をかけ合い、潜って足を引っ張り合い、泳ぎを競い合い――――笑ったり怒ったりして、あたしとミクルは童心に返って遊び転げた。


 海水が傷に沁みる痛みさえ気にならないくらい、夢中になって。

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