81.魔導司教の息子
野生の勘で走ること、およそ十分。
グラズヘイムのある繁華街は意外とマンションから近く、思ったより早く到着できた。
ところが、今日は休日前。そのことをうっかり失念していた――どこもかしこも人、人、人!
この前のショーフェスの時と同様、通りは人でごった返している。
あたしはその人波の隙間を縫って、懸命に目的の人物を探し回った。
しかし、マーブル随一と言われる夜街は、とてつもなく範囲が広い。メイン通りしか知らなかったけれど、ひとたび横道に逸れればあちこちが迷路みたいに入り組んでいて、ついには自分がどこにいるのかも定かではなくなった。
それでもあたしは首を巡らせて、周囲を見渡した。
自分より背の高い人々が前進後進、右往左往している。皆、楽しむためにここに来ているのに、そんな中で一人、がむしゃらになって人探しをする自分。
不意に、迷子になったような錯覚と共に、孤独感と無力感が冷たく胸を吹き抜けた。
これだけの人の中で、たった一人の人物を果たして見つけられるんだろうか?
そう思うと、どんどん思考がマイナスに落ちていく。
運良く彼女を見つけたとして、あたしに何ができる?
きっと彼女は、あたしのことなんて信用していない。だから初めから、問い質そうとしなかったんだと思う。
そんなあたしが、彼女に言えることなんてある? ましてや説得なんて、できるのか?
アインスに、肝心なことを言うこともできなかった卑怯者のくせに。
卑怯者でいいじゃないか、とあたしの中の悪い心が囁いた。
帰って、知らん顔していれば、またいつも通りの朝が来る。
朝になればアインスがいて、笑って、バカなケンカして、キスして、そんな生活が戻ってくる。
それなのに――どうして、あたしはここにいるんだろう。
あたしはそのまま、繁華街のどこだかわからない場所で、立ち竦んだ。周囲を通り過ぎる人々は一瞥すればいい方で、殆どが目もくれない。一人ぼっちだ。当たり前のことなのに急に心細くなって、怖くて寂しくて苦しくて、ついに堪え切れず涙が滲んできた。
泣いている場合じゃない、頭では理解してる。
でも、もう――どうすればいいのか、わからない。
すると突然、乱暴に腕が引かれた。
「エイル・クライゼだな?」
いかにもチンピラといったゴブリン系の二人組が、憎々しげな目であたしを睨んでいる。涙に濡れた瞳で、あたしは呆然と彼らを見つめ返した。
「ちょうどお前を探していたんだ。会えて良かったぜ」
「お近づきの挨拶だ、受け取りな!」
そう告げ様、一人があたしの左頬に容赦ない拳を叩き込んだ。
恐らく、この二人も、暗示にかけられているのだろう。けれど周囲の人々は、あたしが泣いていた時と同じように、何もしてやくれない。怒鳴られ殴られ、髪を引き掴まれて責められてるあたしに、汚いものでも見るかのような目付きを一瞬落としていくだけだ。
全身を襲う理不尽な暴力よりも、あたしにはそれがとても悲しくて痛かった。
「……おい、ここであまり騒ぐと出入りが面倒にならねえか?」
「それもそうだな。なら移動するか。まだ痛めつけ足りねえし、仲間も呼ぼう」
今更ながらに周りが気になり始めたのか、二人はそう言って、ぼろ屑みたいになったあたしを軽々と抱え上げ――ようとしたところで、一人が消えた。
続いて二人目も。
支えを失って、あたしはまた道に転がった。
「全く……見てらんねえよ。何でこんなところに来たんですか!」
抱き起こされて目に映ったのは――――漆黒のローブから渋い表情を覗かせた、ジンの顔だった。
また、涙が溢れた。
助けられたからじゃない。
ジンの無表情を気取ろうとする瞳に、あたしを心配する色が映っていたから。そして、あたしがやらなきゃいけないことを思い出したから。
「……姉さん、泣かないで下さいよ。これじゃ、俺が泣かせたみたいじゃないですか」
「お前のせいじゃん! お前と、アインスのせいじゃん……」
あたしは無茶苦茶に泣き喚きたい衝動をぐっと堪え、強い口調で訊いた。
「アインスはどこ?」
ジンは目を逸らし、素っ気なく言い放った。
「知りません」
「じゃあ、リリムちゃんはどこ?」
次の質問は、効果的だったようだ。ジンは驚きに瞠った目をあたしに向け、長く重いため息を吐き出した。
「…………わかっちゃったんですね。姉さんにだけは、知られないようにしてたのに」
「アインスは、どこ?」
もう一度、同じ質問をする。しかしジンは、静かに首を横に振った。
あたしはジンを押し退けて立ち上がった。全身に鋭い痛み、鈍い痛み、様々な痛みが走ってまた倒れかけたけど、必死に足を踏みしめる。
「じゃあ、いい。自分で探す」
また人波を泳ぎかけたあたしを、ジンが腕を引いて引き留めた。
「やめてください! 危いんですよ!? 自分の状況、わかってるんですか!?」
あたしはジンの手を振り払い、叫ぶように答えた。
「わかってるよ! 売れっ子なんだろ!? あたしと話したくて堪んない奴がたくさんいるらしいな!? わかってるよ……あたしのため、でもあるんだろ? そんなこと、わかってんだよ!!」
あたしの言葉に、ジンは思い詰めたような目を見せ――――それから、ゆっくりと頷いた。
「…………パーティ会場は、この奥です」
ジンに連れられたのは、繁華街のかなり奥まったところにある、陰鬱な雰囲気の路地裏だった。
ジンの指差す突き当たり見ると、闇より濃い暗黒がぽっかりと口を開け、渦を巻いている。
「嘘…………あれ、まさか、スキュマ!?」
あたしは思わず声を上げた。
通常、マジナとマギアを行き来するためには、然るべき手続きを経て『ターミナル』を介さなくてはならない。
しかし、稀に例外もある。
それが『スキュマ』――人為的、もしくは何らかの条件が重なって作り上げられる、両世界を繋ぐ穴だ。世界の綻び、と呼ばれることもある。
「そうです。俺が開けました」
相手は女一人。
なのに何故こんな大掛かりな舞台が必要になる?
それに『スキュマ』の私的生成は、魔法の私的使用以上の重罪だ。マジナ永久追放どころじゃ済まない。
けれどそのどれをも問わせる余地なく、何か言おうとしたあたしを睨んで黙らせ、ジンは続けた。
「心配いりませんよ、何かあれば、俺の親父が勝手に揉み消します。素晴らしいほどの親バカなんでね。だから姉さん、手出しはやめて下さい。下手すると、巻き添え食らって死にますよ。『向こう』に集まった観客は、煽り立てられたおかげで、激しく興奮しています。メディカル・ハンターだろうと、手に負えないくらいにね」
抑揚のない、機械音声のような口調だった。表情も同じなんだろう。そう思ったから、あたしは奴の顔を見なかった。
「…………それでも、止めるよ、あたし」
ぽつりと漏らした声に、ジンは答えなかった。
代わりに少しの間を置き、小さく呟く。
「…………何で、こんなところにまで来たんですか。何で、知らないフリしてくれなかったんですか。何で、あのまま帰ってくれなかったんですか。何もなかった顔をして、普段通りの生活に戻る、それで良かったじゃないですか」
あたしもそう思う。
だけど、あたしは来た。
だってこのまま帰ったって、間違いなく後悔する。ずっとこのことを忘れられず、きっと悔やみ続ける。
心に陰を落として過ごし続けることを余儀なくされるなら、それはジンの言う『普段通りの生活』と形は同じでも異なるものだ。
どちらにしても、もう戻れない。
ならば、あたしは今できることをしたい。
「…………あたしは、リリムちゃんじゃなくて、アインスを守るためにここに来たんだ。チンピラ野郎に……化け物って、言われてた。違うって、あたしが証明する。アインスは、化け物なんかじゃない。だから、姉のあたしが、守る。間違ったことを、しないように。化け物なんて、誰にも言わせないように」
上手く言えなかったけど自分の気持ちを伝えると、ジンは小さく笑った。
「アイちゃんが羨ましいようで…………可哀想ですね」
どういう意味かわからなくて、ジンの顔を見ると――ピン、と緊張の糸が張る音が聞こえた。そんな気がするくらい、奴の顔からあらゆる表情が失せた。
「これから先は自分の責任で、自分の勝手にして下さい。じゃ」
淡々と告げると、ジンは路地裏の奥――暗黒のスキュマの方へと消えていった。
闇に飲まれるようにジンの姿が掻き消える。それを見て、あたしは今更ながらに背筋が寒くなるのを感じた。
あの向こうに、一体何が待ち受けているのか。
想像するのも嫌で怖くて、けれど何とか自分を叱咤して、あたしは逃げ出したくなる衝動に耐えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます