80.本人が本名を覚えてないかも説
猿達のマンションに到着すると、滑らかに上昇するエレベーターにすらもどかしさを感じながら、部屋のドアまで走った。そして力任せにドアを叩く。呼び鈴を押すことも忘れて、ブチ壊す勢いで叩いて叩いて叩きまくった。
「…………姉さん?」
焦れるくらいにのんびりと顔を出したのは、ナリスだった。寝起きらしくパンツ一枚というだらしない格好だったけど、あたしは構わず叫んだ。
「アインスは!?」
息を切らして汗と涙に濡れたあたしの顔を見て、ナリスは寝癖で折れ曲がった前髪をいじる指を止めた。
「何かあったんですか? それにマオリは? 今日はあいつが迎えに行ったはずなんですけど……」
「うるさい! アインスはいるのかって聞いてんだよ! 質問を質問で返すな!」
ああもう、焦れったい!
剣幕に圧されて固まるナリスを突き飛ばすようにして、あたしは部屋の中に転がり込んだ。
けれど、いない。どこにもいない。
アインスがいない!
「えっと……アイちゃんなら、ジンと二人で出ていきましたよ。今夜は帰らないかもって」
室内のあちこちを探し回るあたしの背に、ナリスが恐る恐るといった感じで声をかけてきた。
「いつ!? どこ行くって言ってた!?」
あたしは怒鳴るも同然でナリスに尋ねた。
「二時間くらい前、だったかな? 場所まではわからないけど、前から予定してたパーティに行くんだって楽しそうにしてましたね。その割に、軽装でしたけど」
パーティ?
パーティって……もしかして、あの時話してた、ショーのこと?
あたしは懸命に二人の会話を思い出し、その中からヒントを探ろうとした。
ダメだ、わからない。場所なんて言ってなかったし、内容にも全然触れなかった。ただ『メイン』がどうとかいうのは聞いたけど――。
その瞬間、あたしの脳から背に何かが走った。
これは、ただの勘だ。確たる証拠なんてない。
けれど――とても恐ろしいことが起ころうとしている、と第六感が強くあたしに訴えかける。
あたしにとってこの感覚は、目に見える証拠などより信じられるものだった。
何故なら、メディカル・ハンター時代、何度もこの直感に命を救われてきたのだから。
「…………ねえ、ナリス。ジンって、ここに来る前、何していたか知ってる? 格闘やってた、みたいなのは聞いたんだけど」
冷静さを取り戻したあたしの声に、ナリスはいつもの柔らかな笑みを見せた。
「ジンね。あいつ、本名『ジーニアルト・スヴェル・グレイプニルス』っていって、実は『宮廷魔道司教』の坊ちゃんなんですよ。生まれてすぐ、父親が当時マギアで仕えてた……名前忘れちゃったけど、某王家が潰されて、安全のために、ギリでマジナに入界できる血統濃度の自分一人だけが逃されたんだって聞きました。マギアじゃ、そういうこと珍しくないみたいですね。で、預けられた先が、父親と親交のあった武闘一門だったらしくて、そこで護身のためにって格闘技を習わされたとか。あ、家族は皆元気に生きてるそうですよ。父親はその後、また別の王家に能力を見初められて、今も宮廷魔道司教やってるって。だからもういつでも戻ってもいいし、向こうからも再三帰って来いって言われてるようなんですけど、本人は『跡を継ぎたくないから絶対マギアには行きたくない』って、よく零してましたねえ」
あたしは、膝から力が抜けていくのを感じた。
ジンは他の奴らと何となく雰囲気が違う、と薄々ながら勘付いてた。アインスも同じだったんだろう。この短期間で二人があんなにも打ち解けていたのは、似た境遇を経験した『同士』だったからだ。
ジンとアインス。どちらも強大な魔力に恵まれた同士。
二人が何をしようとしているのかは、わからない。
けれど、これだけは言える――――今夜、行われるのはきっと、パーティじゃない。
いや間違いなく、パーティなんて楽しいものじゃない!
あたしはふらつきそうになる足を叱咤して、マンションの外に出た。そこでようやく思い付いて、携帯電話からアインスに電話をかけてみる。
けれどやっぱり、圏外。
どうしよう、どこに行ったんだろう?
何度かけても繋がらないリダイヤル画面を眺めて――あたしは弾かれたようにまた電話した。
アインスにではなく、カミュに。
『…………エイルさん、こんばんは。久しぶりだね』
カミュは、二回目のコールで出てくれた。背後からは、相変わらずの騒音が聞こえる。心なしか元気がないように感じたけど、久々に耳にするカミュの穏やかな低い声に、あたしは安心して、泣きだしてしまった。
『エイルさん、どうしたの? もしかして……泣いてる?』
バカバカ、あたし! 泣いてる場合じゃないだろ!
「んなわけねーし! ねえ、そこにアインスいる?」
『アイ? ここにはいないよ。暫く休ませて欲しいって言うから、休暇を取らせて以降は連絡もないね。あの……俺も、聞きたいことがあるんだけれど』
「聞きたいこと?」
騒音に紛れそうになるカミュの声に、あたしは耳を凝らした。
『じゃあ、単刀直入に聞くね? …………アイの結婚相手って、エイルさんなの?』
「…………はい?」
つい今まで泣いていたことも忘れ、あたしはポカン顔そのまんまの間抜けな返事を吐いた。
『その調子だと、違うのかな? アイが長いこと付き合っていた相手と、結婚秒読み状態……って噂が流れてるんだよね』
「いやいや、待て待て! そんな相手、聞いたことねーぞ!? いつからそんなアホな噂流れてんの!?」
『俺の耳に届いたのは、アイが休暇を申し出る直前、くらいだったと思う。本人も否定しなかったし、ああ、結婚の準備をするから休みが必要なのか、って納得して、深く事情を聞かずに許可したから。俺はてっきり、お相手がエイルさんだと思ってたんだけど……そっか、違うなら安心した』
そう、と相槌を打ちながら、しかしあたしはもう立ってもいられなくなって、その場にへたり込んだ。
アインスが結婚?
で、否定もせず休み申請したって?
何でそんなことになってんの……?
にしても、相手をあたしと勘違いするより、もっと相応しい子が――と考えて、凍り付いた。
このことを、『彼女』が知ったら、どうする?
愛する人が自分ではなく、別の女を選んだと知ったら――いや、もう知っているのかもしれない。
いつからそんな噂が流れたのかはわからないけど、あたしに標的を変えたのはこれが理由で。
だとしたら、おかしな暗示を使ってあたしを襲わせたのは、やっぱり――――。
『ああ、そういえば、ミオネさん……だったかな? 今日、久々にウチの店で見かけたよ』
誰それ、と尋ねかけて、それが彼女の姓だったと思い出す。あたしは電話に噛み付く勢いで尋ねた。
「リリムちゃん!? いつ!?」
『俺、今日は用事があってさっき店に着いたばかりなんだけど――ほとんど入れ違いで出て行ったから、二十分ほど前かな? アイがいないとわかって、すぐ帰ったみたい。噂のせいか、随分と暗い表情してたね……』
膝が、震えた。彼女は知っている。そして、噂を『真実』だと信じている。
あたしの職場に来て、直接確かめてくれれば――と、そこでまた、恐ろしい考えが湧いた。
もし、もっと前に知っていた、のだとしたら?
彼女もカミュと同じ勘違いをしていて、あたしを牽制するために、あの日あんな話をしに来たのだとしたら?
そして、この噂は――きっと、罠だ。
『来てもらおうと頑張ってはいるんだけど、まだ確認できてない。直接お願いしようにも、場所も行動も掴めないし……』
アインスの言葉が、耳奥に蘇る。
頑張るって、何を?
――おかしな噂を流して、おびき出すことだ。
来てもらいたいのは、誰?
――彼らの言っていた『メイン』だ。
じゃあ、『メイン』っていうのは…………。
もしかしたら、アインスはあたしが隠していた事実まで知っていたのかもしれない。
まさか、彼女の中にいる自分の子種を、邪魔に思って――?
あたしは必死にその考えを否定した。バカげた妄想だ。こんなこと一瞬でも考えるなんて、自分は最低だ。
アインスはそんなことしない。きっと、まだ知らないんだ。だから、彼女のことを誤解してるんだ。『おかしな方法で自分の周囲を嗅ぎ回り、姉を怪我させた奴とも関連がありそうな人物』として、勝手に敵視してるだけなんだ。
なのにどれだけ言い聞かせても、あたしの中のアインスの笑顔が壊れていきそうになる。どんどん、別のものに変わっていきそうになる。
「カミュ…………リリムちゃん、店出てからどこに行ったか、とかわかる?」
震えがカミュに伝わらないように、あたしはゆっくりと静かに聞いた。
『さすがに、店の外に出て行ってからのことまではわからないな。でも、送迎用の馬車には乗らなかったようだから、まだ近くにいるかもしれない。……エイルさん、どうかしたの? 何か、あった?』
「いや……ううん、彼女にも、誤解されてるなら、ちゃんと弁明しといた方がいいと思って。忙しいところにごめん……じゃ、また」
あたしは通話を終えた携帯電話をジャージの尻ポケットに押し込み、グラズヘイムのある繁華街方面に向かって走りだした。
とにかく、リリムちゃんを捕まえよう。そして誤解を解き、これまでの件への関わりを確認する。彼女がやったことだとしたら――ええい、それについて考えるのは後だ!
今の彼女を、アインスに会わせてはいけない。
アインスが何をしようとしてるのか知らないけれど、きっとろくなことじゃない。これだけはわかる。
まずはリリムちゃんを確保して説得、良からぬことを企む猿どもをしばくのはその次だ!
沸き上がる嫌な予感を振り切るように、あたしは感覚だけを頼りに、慣れない四区の道をひた走った。
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