79.敢え無き疾走

 グリフの回答に、ああ、とあたしは声を上げた。


「聞いたことある。知覚できないくらいのレベルで五感に刺激を与えて、相手に何らかの作用を起こさせる……みたいなやつだよね?」


 グリフは頷き、補足説明をした。


「そう。影響は人それぞれ、向き不向きもあるそうだ。例えば、喉が渇いてりゃ『何々というドリンクを買え』ってメッセージに従いやすくなるのはわかるだろ? 逆に、日頃から暴力に慣れていない者なら『誰々を殴れ』なんて暗示にすんなり従うのは難しい。……とまあ、偉そうに述べたが、効果のほどについちゃまだ諸説あるようでな。確実な方法、とも言い難い」


 それでも、と前置きして、彼は更に目付きを鋭くした。


「効果の増幅を狙って、様々に画策されていたとしたら……どうだ?」


 あたしは息を飲んだ。

 驚きのせいではない。『サブリミナル効果』と聞いてから膨らみ始めた想像が、これからグリフの言葉によって形にされることに、軽く怖気づいたのだ。目の前でテストの採点を待つ、学生の気分、といったらわかりやすいかもしれない。


「まず、この辺りにゃ、テレビや映像機器なんて高級品を持っている奴は少ねえ。音楽機器も然りだ。だから――これは俺の予測でしかねえが――視覚と聴覚の刺激に対しては、ひどく鈍いか、もしくは弱いかのどちらかに二分されるんじゃねえかと思ったんだ」


 つまり、効果の現れやすさは二極化されると言いたいんだろう。全く効かないか、はたまた効きすぎるくらいの成果を得られるか。


 しかも、訴えかけたのは視覚と聴覚だけに留まらない。


「あの二人、『クセになって通い詰めた』って言ってたんだよね? だったら、香りとか飲み物にも、何か仕込まれていたんじゃ……」


 黙っていられなくなって、あたしは結論を急ぐように口を挟んだ。グリフは頷く代わりに、ため息を吐き出した。


「ああ、あんたの言う通りだ。あの二人から、ダウナー系の薬物が検出された。ひどく常習性の高いやつ、がな。薬物を使えば、尚更暗示にかかりやすくなる」


 おまけに、その呼子の女なる者は、目的に応じて『適応しやすそうなタイプ』を選んでいたとも考えられる――ともグリフは言った。


 『身辺調査をさせる』という目的に関しては、潜在的に好奇心の高い者が勝手に動き出すだろうから無作為だったのかもしれないけれど、『痛い目に遭わせる』ことを目的とするなら『暴力に抵抗のなさそうなタイプ』に声をかければ達成しやすい。あの二人は見るからにチンピラ風情だった。それで、目をつけられたのだろう。


 いいや、あの二人だけじゃない。きっともっと、多くの人が知らない間に暗示をかけられている。もしかしたら、更なる『目的』のために、今も誰かが潜在意識下に『指令』を植え付けられているのかもしれない。


 ダメなら次を探せばいいのだ。失敗しても、気付かれることはない。素知らぬ顔して仕掛けを施し、それが動くのをただ待っていればいいのだ。


 でも何故?

 何故、こんな手の込んだことを……?


「例の店に行ってみたが、もぬけの殻だった。恐らく、転々としているんだろう。手がかりは呼子の女だけだが、そいつについての記憶も曖昧らしくてな。で、街中うろついて探してみたものの、特徴一つわからねえんじゃ、どうしようもねえ」


 グリフの声を聞きながら、あたしはまた彼女のことを思い出していた。消そうとしても消そうとしても、その人物は何度も何度も頭の中に現れる。


 そんなはずない。だってこんなことしたって、あたしを傷めつけたって、何の意味も……。



『羨ましくて、妬ましくて、堪らなかった』



 やめろ!

 止まれ、あたしの思考!



「それで……その女、は見つからないまま、なの?」


 あたしは呆然としながら、グリフに尋ねた。


「ああ。だが、もう心配いらねえ」

「え?」


 気が付けば、脱力してへたり込んでしまっていたらしい。グリフを見上げると、暮れなずむ夕陽を背に、彼はひどく固い表情をしていた。



「…………あんたの知り合いが、片付けるとよ」


「知り合い?」



 ぼんやりしたまま、あたしは惰性で問い返した。


 グリフは目を伏せ、呻くように呟いた。



「…………俺もかなりの修羅場をくぐってきたが、あんな化け物は見たことがない。ありゃ一体何なんだ? 何であんなものが、このマジナにいる? 明らかに『特級禁種』だろうが」



 心臓が、跳ね上がるのを感じた。激しく胸を打つ鼓動が、体を内側から突き破りそうに膨れ上がる。




「ただのエルフのガキだと思ったら…………ああクソ、思い出すだけで気分が悪くなる」




 高まりの限界を迎えた鼓動が、糸が切れたみたいに止まった――――気がした。





 どんな情報網を使ったのかはわからない。


 だけどアインスは、名前も知らないはずのチンピラ3――グリフのことを探り当てた。

 今朝あたしと別れてすぐ、奴はその足でグリフの事務所を訪れたという。


 そして、グリフに知っていること、調べたことを全て吐かせた。


 その時のことを、グリフは詳しく語らなかった。語ろうとしなかった。



 『あれはエルフの皮を被った、化け物だ。魔物なんてものを振り切った、恐ろしい化け物だ』と繰り返すばかりで。



 ――奴は全部知ってた。再確認に来ただけだ。

 ――そして笑いながら言った。『今夜全て終わらせる』とな。

 ――俺はもう、二度と会いたくねえ。思い出したくもねえ。

 ――あんな化け物に関わるのは、二度とごめんだ。




 あたしはグリフの声を思い出しながら、走っていた。


 違う、と心の中で叫びながら走って、ジン達のマンションに向かっていた。



 違う、違う、違う!

 違うよ、違う! 違うったら違う!


 走りながら、あたしは泣いていた。


 アインスは、化け物なんかじゃない!


 怒ると見境なく噛み付いて、寂しくなると子供じみた拗ね方して、バカみたいに食べて飲んで、友達と仲良く遊んで、楽しそうに笑って、優しいキスをして――そんなアインスが、化け物なんかであるはずない! あたしの大切な弟だ!


 あたしは涙を弾き飛ばす勢いで、走った。ひたすら走った。


 ペースも何もあったもんじゃない。


 息を乱し、出鱈目なフォームで闇雲に疾走するあたしの頭を占めていたのは――――アインスの子供みたいに幼い笑顔だけだった。

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