71.絶望に灯る希望

「ごめんなさい!」


 何を謝られているのか、さっぱりわからない。もしかして玄関ドア襲撃のことかな? ならあたしじゃなくて、ドアに謝って欲しい。多分とても痛かったと思うの。


「私がバカだったから……アイさんにもお姉さんにも迷惑かけることになってしまって。本当にすみませんでした」


「えっと、あの、何のことなのかわかんないんだけど。アインスは、変な人が周りをうろついてるとかどうとか言ってたけど」


 問い質すと、リリムちゃんの顔色が一層白くなった。震えるくちびるはさらに色をなくし、透けてしまうのではないかと思われた。


 震えを押さえるように、リリムちゃんは自分の細い肩を抱き、か細い声で答えた。


「お姉さんとお酒を飲んだ日、私、アイさんと、あの……」

「お泊りなさったた、と」


 言い淀んだその先をあたしが代わりにさっくり言うと、彼女は恥ずかしそうに頷き、俯いてしまった。


「アイさん、優しいから……断れなかったんだと思います。帰ろうとするのを無理に引き留めて、ワガママ言って、縋り付いて……でも、すごく優しくしてくれた。すごく幸せでした。なのに…………私、嘘ついてたんです。きっと、こういうのって、隠しててもわかるんですよね。アイさん、その日から私のことを避けるようになりました」


 ゆっくりと顔を上げたものの、目を逸らしたまま、リリムちゃんは自嘲的な笑みを口元に刻んだ。


「アルバイト掛け持ちしてる苦学生だなんて、大嘘。私……マカナに住むとある貴族の愛人なんです。いいえ、愛人なんて、上等なものじゃない。何をされても文句を言えない愛玩物、わかりやすくいえば奴隷のようなものです」


 あたしは多分、すごくアホみたいな顔をしていたと思う。リリムちゃんはそんなあたしを見て、また悲しげに微笑んだ。


「軽蔑するでしょう? これしか生きる道がなかったなんて言い訳したって、汚れていることには変わりないもの」


 間抜けなポカン面のまま、あたしはリリムちゃんの声を聞いていた。



 これが、アインスが察知した『違和感』の正体?


 全身で触れ合って、彼女が『誰かの所有物』だってことを感じ取って、これ以上深みにハマっちゃいけないと身を引いたって、そういうことだったの?



 言葉も出ないあたしを置き去りに、リリムちゃんは続けた。


「私の家、とても貧しくて……いじめられていたのも、外見だけのせいじゃなかったんです。高等部に入る前にその人に見初められて、親も承諾して、それからずっと囲われ者。家族のためだ、仕方ない、諦めるしかない、って、自分に言い聞かせて耐えていました。耐えることが当たり前になって、麻痺して、何のために生きているかもわからなくなって――でもそんな生活の中に、光が差したんです」


 場所は、愛人契約している男に連れられてやって来たグラズヘイム。


 光源は、同じ種族でありながら伸び伸びと生を謳歌している青年――アインス。


「稲妻みたいな、強烈な光でした。モノクロだった世界に、色彩が生まれるみたいな衝撃を受けました。私ね、本当は知っていたんです。家族は、私のことなんて必要としていない。不要だから売っただけ、私のことなんて愛してない。それでも、しがみついていたかった。他に縋れる存在がいなかったから。バカみたいでしょ? けど、アイさんのおかげで、目が覚めたんです」


 それから彼女は、密かに貯めていたお金を持って男の元から逃げ、一人暮らしのアパートを借り、適当なところで働きながらグラズヘイムに通ったという。


 募る想いは実り、夢は叶った。たった一夜に終わったけれども。


「憧れだったんです。見ているだけで、幸せだったんです。その人に、触れられた。夢みたいで、あの日は眠るのが怖かった。眠らなければ良かったな……そしたらもっと、アイさんを傍で見ていられたのに。あの幸せな時間を、もっと長く味わえたのに」


 大きなブルーの瞳がみるみる潤み、溶け落ちるように涙が零れて流れた。悲しい、それ一色の泣き顔だった。


「……でもね、夢って必ず覚めるものなんですよね。わかってた、わかってたけれど、辛かった。未練がましくまたグラズヘイムに通って、アイさんの姿を見たくて、会いたくて会いたくて。けどもう届かないんだなぁ、ってその度に思い知らされて。泣いて泣いて、体内の水分使い果たすんじゃないかってくらい、泣いて、泣き続けて……」


 ルージュの塗られていないくちびるが、嗚咽に震える。この期に及んで、あたしはまだかけるべき言葉を見つけられずにいた。


 リリムちゃんは、そうして暫く泣いた。あたしは黙って、彼女が落ち着くのを待った。


 痛みに喘ぐような嗚咽が収まると、リリムちゃんは真摯な意志に満ちた目をあたしに向けた。


「でも私、辛くても生きなきゃいけないんです。どれだけ苦しい罰を受けることになろうとも、生き続けなきゃならないんです」


「……罰?」


 渇いて張りついた喉から、あたしは何とか声を出した。


 リリムちゃんは小さく頷き、これまでとは打って変わって強い口調で告げた。




「私、妊娠したんです。アイさんの子供を」




 その瞬間――あたしは、舞台照明が一瞬のうちに消えて、奈落に墜落していくような感覚を覚えた。




 眩む頭を懸命に揺さぶり、彼女の言葉を反芻する。



 子供?


 アインスの子供?


 リリムちゃんの、お腹の中に――アインスの子供がいる?



「あの……待って。二人はまだ出会って間もない、よね? こんなに早く、妊娠ってわかるものなの?」


「ええ。同族同士だと妊娠しやすいと聞いたので、もしやと思って、マカナの医療機関に行って発覚したんです。……あの、誤解しないで下さいね? 罰が当たったっていうのは、アイさんの子供を授かったことじゃないですよ? この子は私を憐れんだ、神様からの贈り物だと思ってます」


 マカナの医療機関――確かにあそこなら、何だってわかる。どんな病だって見付け出せる。どれほど小さくても、命の芽吹きを発見することができる。


 それから、リリムちゃんは優しい手つきで自分のお腹を撫でた。


 そこに落とす穏やかな微笑みを見て、産むつもりなんだ、と知り、寒気にも似た感覚に気が遠くなりかけた。



 けれど、これだけは確認しなくてはならない。そう思い、必死にくちびるを動かした。



「…………アインスは、このこと、知ってるの?」


「知りません。お姉さんも、絶対に知らせないで下さい」


 泣き止んだリリムちゃんの瞳には、強く逞しい光が燃えていた。かけがえのないものを得た、『母親』の目だ。



 リリムちゃんとアインスの子供ならさぞ、可愛いだろう。


 産まれた子供は、幼い頃のアインスみたいに天使のように可愛らしく、時に悪童ぶりを発揮して、様々な人々に囲まれ愛されながら育っていくことだろう。



 ――父親を知らないまま。

 ――アインスと同じように。



 近くて遠い未来を思うと、じり、と胸に、灼かれるような痛みが走った。

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