70.憂いの面会

「ぶふっ……大変でしたねえ。ささ、粗茶ですが」


 ファランが笑いを堪えながら出してくれたお茶を、あたしは一気に飲み干した。紙のカップを力任せに握り潰しても、しかし怒りは収まらない。


 この数年間、無遅刻無早退無欠勤を誇っていたのに、その皆勤に思い切り傷が付いてしまった。発熱の時の分は仕方ないとして、今回の遅刻はかなり痛い。くだらない姉弟戦を、こともあろうか、職場の皆様の面前で大々的に披露してしまったのだ。


 怒りで周りが見えなくなっていた、あの時のあたし! 時を戻せるなら殴ってやりたい!


 それ以上に! あのバカを再起不能にできなかったのが深く激しく悔やまれる!!


 止めに入った皆様に宥められ、ようやく我に返ったあたしに、あの野郎…………皆の見てる前で、またキスしやがったのだ!



『エイルからキスしてくれたからご褒美。じゃあねえ! 俺も愛してるよ! 今夜も、また、キス、し、て、ね!』



 皆に聞き取りやすいように、わざわざゆっくりしっかりはっきり、これでもかってくらい丁寧かつ大きな声でそう言い捨てて、さっさと車に乗って逃げ帰りやがりましたよ!


 ええ、そうですよ!

 あたしは奴の目論み通り、好奇の目に晒されて死ぬ程恥ずかしい思いをしましたよ!


 まさに視線の針地獄でしたとも!!


「可愛い弟さんじゃな〜い、あんなに懐いちゃって。あたし、お兄ちゃんにキスなんてできないよ!」


 フォローになってないフォローを口にしたら、あの現場を思い出してしまったようで、ファランは俯いて激しく震えた。こみ上げる笑いを、一生懸命堪えようとして下さってるんですね。もう笑いたきゃ素直に笑ってくれ。その優しさすら痛いわ……。


 諦めにも似た心地で書類を整理していたら、メニューを終えたらしき常連さんが通路から出てきた。なので、いつものように、ありがとうございました、と頭を下げかけたのだが。


「おお、クライゼさん! いやぁ、情熱的な彼氏だねぇ。若いから毎晩大変だろうけど、お身体大切にね!」


 とまあ、満面の笑顔でさらりと下ネタ!


 これにはファランも耐え切れなかったらしく、盛大に吹き出して、椅子から落ちるんじゃないかってくらい笑い転げた。


 シフト交代の時間になってハンタージムに行けば、更に面倒臭い奴が嬉々として絡んでくる。


「クライゼさぁん、素敵な恋人がいたんですねぇ。何で教えてくれなかったんですかぁ? お友達だと思ってたのに、悲しいっ! あ〜あ、お車で送迎なんて羨ましいなぁぁぁ?」


 わざとらしく体をくねらせて、早速嫌味をぶちかましてきたのは、バカケイン。こいつだけでも鬱陶しいというのに。


「あの子いくつ? えらく若いよな? 俺、エルフを生で見るなんて初めてだったけど、すごい美形で驚いたよ! いやぁ、クライゼって面食いだったんだなぁ……で、馴れ初めは? どっちから告白したの? どこまで進んだ? なあなあ、オジサンにも恋バナ、聞かせてくれよ〜う」


 こんな感じで、ローランドさんまで一緒になってからかってくる始末。どいつもこいつも、人をオモチャにしやがって!


「うるっせえな! 馴れ初めも告白もねーよ! 弟だっつってんだろうが!」


「んま、先輩インストラクターのローランドさんに何という口の聞き方! いくら何でもひどいぞ、謝りなさい!」


「仕方ないよ、クライゼは年下が好きだからさ。オジサンにはキツく当たっちゃうんだよ」


「年下なんざ好きじゃねえよ! ついでに面食いでもねえわ! 好き勝手抜かすな! あれは弟! キスは嫌がらせ! 気持ち悪い勘違いすんじゃねえ!」


 必死に弁明したところで、誰も聞いちゃくれない。


 朝の光景を見た客はほとんど帰った後だったけど、真実を捻じ曲げられた捏造も甚だしい噂は既に大いに広まっていて、どいつもこいつもニヤニヤするばかり。スタッフも客も、隙あらば新人インストラクターをいじめにやって来る。


 何であたしがこんな目に遭わなきゃなんないの?

 そうだ、全て猿が悪い!

 あの猿、帰ったらただじゃ済まさねえ!!


 説明し疲れ、怒鳴り疲れ、追い回し疲れ、どつき疲れ、さらに精神的にも疲れながら、やっと交代の時間になって受付に戻ることが許されたあたしだったが――――受付カウンターに佇む人影を認めた瞬間、床に張りついたように足が動かなくなった。


「あ、エイル! お客さんだよ。この子……」


 ファランがあたしに気付いて声をかける。すると、俯いていたその人物は、ゆっくりと顔を上げた。


 淡いベージュのフリルチュニックが、プラチナブロンドに縁取られた美しい顔を引き立てる霞み草みたいに揺れた。



「……お姉さん、お久しぶりです」



 はにかんだような、でもどこか寂しそうな笑顔で頭を下げる彼女に、あたしは名前を呼ぶのが精一杯だった。



「…………リリムちゃん」



 ファランによると、彼女はあたしが二連休を取っている間もここに来ていたそうだ。


 言葉も表情を失っているあたしに、ファランは優しく諭すように言った。


「どんな関係かはわからないけど、話くらい聞いてあげたら? 何だかあの子、すごく切羽詰まってるみたいに見えるよ。話するまでは毎日通いそうな勢いだし……仕事はあたしが何とかしとくから、ね?」


 あたしはファランに後押しされて、キタセンの中にあるカフェにリリムちゃんを連れて入った。外に出る、という選択肢は浮かばなかった。真夜中の襲撃が彼女の仕業だという確証はないけれど、アインスの言葉といつか見た彼女の冷ややかな表情が頭から離れなかったから。


 カフェとは名ばかりで、食事も飲み物も食券制。なので、ここにはカウンターを超えてうろつくウエイターはいない。平日の昼を過ぎた時間は客が入っている方が珍しいくらいで、今もまさに店内にいるのはあたし達だけだった。


 注文したコーヒーを二つカウンターで受け取ると、あたしは不安と警戒心で強張りそうになる表情を隠しながら、リリムちゃんを奥のボックス席に案内した。



 しかし、リリムちゃんの放った第一声は、あたしの予想を大きく裏切るものだった。

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