72.天使の仮面

「罰が当たったのは、妊娠に気付いた後です」


 あたしは胸の痛みを堪えて、リリムちゃんの話に耳を傾けた。


「私、バカだから、逃げたといっても彼がわざわざ自分なんかを探しに来るはずがないと高を括っていたんです。彼にはたくさんの愛人がいますし、自ら愛人志願する女性も少なくはありません。代わりなんて、いくらでも補充できますから。ここはマナカからも遠いし、グラズヘイムならたとえ鉢合わせても気付かれにくいだろうと思って油断していたら……」


 ついに見付かり、連れ戻されたのだという。


 リリムちゃんの話によると、愛人契約していた男は彼女にそれほど愛着があったわけではなかったらしい。しかし、他の男に心奪われているとわかった途端、執着心を剥き出し始めた。


 つまり、好きではないけれど誰かに取られるのは許せない『独占欲の強いタイプ』だったようだ。


 リリムちゃんの暮らすアパートへ乗り込んできた男は、彼女に激しい暴力を振るいながら相手の男について聞いた。これまでにも何度も殴られたことはあったそうだが、今回のそれは今までの比ではなかった。



 アインスか、お腹の子供か。



 究極の選択を迫られたリリムちゃんは――彼に屈することを選んだ。この子を殺さないで、何でもするから、と。


 男は、意外なほどあっさり子供を産むことを許した。リリムちゃんの思いに打たれたからじゃない。『両親からエルフの血を受け継ぐなら、さぞや美しい傑作が生まれるだろう』という、欲に塗れた打算からだ。


 どこの誰とも知れない奴に売られるのかもしれない。自分のように、この男の玩具にされるのかもしれない。けれどリリムちゃんは、そんな未来など覆してやると心の中で固く誓っていた。お腹の子は、死んでも守り抜く。絶対に幸せにしてみせる、と。


 しかしその前に、彼を止めなくてはいけない。自分の所有物に手を出した男を、彼はきっと許さないだろう。一体どんな目に遭わせるか、わからない。


「だから私……何度かお姉さんのお宅を訪れたんです。今はマナカの彼の家にいるんですけど、人目につきにくい夜にこっそり抜け出して。グラズヘイムには恐らく彼が雇った誰かがいるだろうし、プライベートでアイさんに繋がる人物ってお姉さんしか知らなかったから。危険だから逃げて、って伝えたかったんです」


 しかし、彼女のそんな行動も男にはお見通しだったようだ。


「私がまだアイさんを忘れてないって、従順なフリをしていてもバレていたみたいですね。彼、私に言いました。アイさんの大切なものを一つずつ、奪ってやるって。でも私には、アイさんの大切なものなんて、一つしかわからない。近くにいられたのはほんのひと時だったもの、仕方ないですよね」


「アインスの、大切な、もの?」


 そこで、あたしは思い出した。


 アインスにとって、大切なものといったらアレしかない。猿小屋にまで持っていった――。



「サイン入りの本!」

「お姉さんです」


 あたしとリリムちゃんの声が、きれいに被る。


 あたしもリリムちゃんも、お互いの言葉に唖然としてお互いの顔を見つめ合った。


「……え? あたし?」


 少し間を置いて尋ね返すと、リリムちゃんは吹き出した。


「お姉さんって、ほんと面白いですよね! 実を言うとね……私、初めて会った時からずっとお姉さんに嫉妬してたんですよ」


「……え? あたし?」


 なぞるように、さっきと同じ言葉が出た。鸚鵡返しのような間抜けた問いかけに、リリムちゃんは頷いて軽く目を伏せた。


「私がどれだけ願っても届かない場所に、お姉さんはいる。これまでもこれからも、誰より近くでアイさんを見ていられる。だから羨ましくて妬ましくて堪らなくて……何で私じゃないの、何でこの人なの、って憎みかけたこともありました。最低ですよね……」


 リリムちゃんが自分に対してそんなに激しい感情を抱いていたなんて、夢にも思わなかった。


 だって、あたしはアインスの姉で――いいや、姉でも、羨ましかったんだろう。リリムちゃんには、頼れる家族すらいないのだから。


「でも、今ならアイさんの気持ちがわかります。だって、私も思うもの。お姉さんが、私の本当のお姉さんだったらな、って。そしたら私、絶対お姉さんっ子だったわ。甘えて甘えて怒られて、でも優しくしてもらって一緒にいてもらって、悲しい時辛い時、いつでも相談して、頼ったり頼られたりするの。アイさんみたいに」


 目を逸らして夢物語を語るリリムちゃんを、あたしは抱き締めたい衝動に駆られた。抱いて抱き締めて、大丈夫だよ、一緒にいるよ、ここにいるよ、と心臓の鼓動を聞かせて、彼女の心を少しでもいいから和らげてあげられたら、と心から思った。


 でもそれはきっと、彼女のほしいものではない。


 彼女がほしいのは、あたしの腕なんかじゃない。


「家族の愛なんて知らなかったけれど、私はアイさんと同じくらい、お姉さんが大切です。こんな私に、優しくしてくれたお姉さんを守りたいって、心から思ってます。だから今日は、お姉さんが無事で、元気な姿を見られて、本当に安心しました」


 リリムちゃんはあたしを真っ直ぐ見つめ、優しい微笑みを浮かべた。泣いて、傷ついて、また泣いて――そんな痛みも苦しみも、全て包み込んで隠してしまう、それはまるで天使の仮面のように見えた。


「お姉さん、迷惑かけてごめんなさい。暫くは気を付けて下さい。私が、何とかします」


「何とかって……」


「彼を、説得してみるつもりです。いつまでも逃げてちゃ駄目なんだってわかりましたから」


 無茶だ、と言いかけたあたしを、リリムちゃんは天使の仮面で制した。


「お姉さん、私の話を聞きながらすごく悲しい顔してました。何もかも、私の責任なのに。だから私、もう逃げません。アイさんも、お姉さんも、絶対に傷つけたくないから」


 けれどアインスの名前を呼ぶ時だけは、天使の仮面に亀裂が入って――その隙間から、今にも泣きだしそうな瞳が光る。あたしはまた、胸が痛くなった。


「お姉さん、ありがとうございます。私、頑張ります。お姉さんのために、アイさんのために――この子のために」


 そう言うとリリムちゃんは立ち上がり、深々と頭を下げて、カフェを出ていった。



 対して、あたしは――まだ奈落の底に落ち切っていないような、不快な浮遊感が続いていて、立ち上がることすらできなかった。

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