59.真夜中の訪問者

 心地良い疲労に任せて眠り、目が覚めてみたら何と午後二時過ぎ。おいおい、典型的なダメ大人の過ごす休日じゃん。


 慌てて枕元に置いた携帯電話を見ると、カミュからメールが届いていた。今日は、五時頃に迎えに来るとのこと。送信時間は昼過ぎだったけど、あたしと同じようにたらふく寝たのか、それとも早めに起きて店に顔を出したのか。何となく後者のような気がする。


 ちょい時間もあるし、今日はちゃんとメイクして行こう!


 ってことで鏡を相手に奮闘していたら、デートみたいだと思って笑ってしまった。みたい、じゃなくて、デートなんだよな。


 念入りに服を選んで、完成した自分の姿を確認すべく、姿見の前でくるんと回転してみる。


 振り返れば、誰もいない部屋。


 ドレスで回って振り向いた時には、そこにアインスがいた。


 …………アインス、何やってんだろ?

 あいつ、一体何に巻き込まれてんの?

 何で説明してくれないの? 何で何も言わずに、一人で抱え込んじゃうんだよ?


 あたしは床にぺたん、と座り込んで目を閉じた。痛いくらいの静寂が身を包む。


 この五年間、アインスのことなんか考える日なんてほとんどなかった。毎年夏に顔を見ていた時だってそうだ。ほんの少しの間、二人きりで一緒に暮らしただけ。それだけで、何も変わりはないはずなのに。


 それでもあたしは今、振り返った先にアインスがいてくれたら、と思ってしまった。カミュの優しい褒め言葉ではなく、アインスの憎まれ口が聞きたい、と思ってしまった。


 何故なのか、わからない。わからないけれど、それだけは動かしようのない、真実の心の声だった。



 それから、どれくらい蹲っていたのか。カミュからの到着メールの通知音で我に返ったあたしは、誰もいない、静けさに満ちた部屋を後にした。



 カミュが連れて行ってくれたのは、マーブル区画のお隣、チェック区画で夏期限定開催されているという、夜の水族館。


 家族連れやカップルで賑わう中、あたし達も海底遊泳のような空間を体感した。

 カミュは相も変わらず人目を引いて、いろんな女性に熱視線を送られていた。でも、肝心の本人は全く気にならないみたいで、あたしと一緒になって童心に返ったようにはしゃいでた。


 それが何だか嬉しくて、ちょっと照れ臭くて、くすぐったい気持ちになった。


 水族館を堪能した後は、カミュがチェック区画で一番オススメだというお店で食事。


 それが聞いてよ。そこ、魚介料理専門店だったんだよ?


 チェック区画は海産品が名物だからって、生きたお魚見た後なのに敢えて食いに行くか? 美味しそうだな、と思いながら魚眺めてたって真顔で言うから、腹抱えて笑ったよ。


 翌日は明るい内から出掛けよう、というカミュの提案で、早めに海産……いや、解散。


 日付が変わる前に、あたしはカミュに送られて自宅に戻った。けれどエントランスに足を踏み入れた瞬間、はっとリリムちゃんのことを思い出した。なので用心深く廊下を伺いながら、ダッシュで階段を駆け上る。


 玄関の鍵を閉めてチェーンをかけると、ほっとしながらあたしはリビングのソファに転がった。


 カミュといると楽しいなあ。優しいだけじゃなくて、適度に毒もあって、そこが面白い。面白くて、もっと一緒にいたいって思っちゃう。


 あたし、今、恋しようとしてんのかな?

 カミュのこと、好きになりかけてるのかな?


 一緒にいると楽しい、また会いたい、会える時を待ち遠しく思う気持ち――これって、やっぱり恋なのかな?


 う〜ん、よくわからない。好みのタイプの人にときめくことは多かったけど、カミュは思いっきり好みとは外れてるし、実際に好きになるまでに至ることも少なかったからなあ。


 電気も点けずに、ソファに寝転んだまま、これまでの恋愛経験を思い出そうとしていると――インターフォンが鳴った。


 途端に思考ごと、あたしは固まった。


 だって、真夜中なんだよ?

 誰かが来るはずない。勧誘や営業だって、こんな非常識な時間に訪れるなんてことしない。


 アインス?

 それはありえない。あれだけ注意を促しといて、こんなことするわけない。バカだけど、こんな悪質な悪戯する奴じゃない。


 カミュ?

 いや、カミュの性格なら先に連絡を寄越す。携帯電話にはそんなメール来ていない。


 じゃあ、誰?

 まさか……。


 インターフォンがまた鳴る。あたしは身を竦めた。また鳴る。鳴る。鳴る!


 そして、激しいノックの連打!


 朝方出会った、冷たい表情のリリムちゃんを思い出す。全身に鳥肌が立った。



 まさか…………リリムちゃん?

 これ、リリムちゃんなの?

 天使みたいなあの子が、こんなことしてるの?



 ドアは狂ったように叩かれる。インターフォンは嵐のように鳴り響く。



 これがリリムちゃんなのだとしたら、用があるのはきっと、あたしじゃなくて――。



 一際激しい衝撃音が走って、あたしは声を上げかけた。ドアを蹴飛ばされたらしい。


 それを最後に、動乱は止んだ。


 本当にリリムちゃん…………だったんだろうか?


 わからない。ドアの叩き方から相手は一人らしい、とは思うけれど、確かめることすらできなかった。とても動けなかった。恐ろしくて、信じたくなくて、なのに疑ってしまう自分を否定できなくて。


 リリムちゃんの天使のような笑顔と冷たい表情が、交互に頭の中を巡る。


 あたしは、優しくて可愛いリリムちゃんしか知らない。でも彼女だってきっと、腹が立てば怒るし、我を忘れることだってあるだろう。


 アインスとの間で、何かあったのだとしたら――恋をした相手でも、いや、心から好きな相手だからこそ、暗く激しい感情を暴発させてしまう、なんてことも、ないとは言い切れないわけで。


 まだ、リリムちゃんだと決まったわけじゃない。


 でも彼女を疑わずにはいられない自分が、信じたくても信じられないこの状況が、とても恐ろしいと思った。

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